「障害者の権利とリプロダクティブ・ライツは相互に否定しない」と優生思想に抗議するステートメント

Generations Aheadという団体が
今回のEdwards博士(体外受精技術の確立)のノーベル賞受賞その他を巡って
以下のステートメントを出し、

障害者の権利と生殖の権利(リプロダクティブ・ライツ)の関係を整理しつつ
優生思想的な生殖の意思決定を促す動きを批判している。


Generations Aheadは、
広範な社会正義関連の当事者の視点から、
遺伝子技術が社会的にまた倫理的にどういう意味を持つかを考え、
広く議論を呼びかけ、問題提起を行う米国で唯一の組織だとのこと。
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ステートメントでは、
障害者の権利とリプロダクティブ・ライツは互いに否定しあうものではなく、
それぞれに互いへの注意を内包するものだ、との主張がまず述べられた後で、

とりあげられている最近の2つの出来事のうち、
1つは世界で初めて体外受精技術を確立したEdwards博士のノーベル賞受賞。

それについて書かれていることは、おおむね以下。

「遺伝病という重荷を負った子どもを産むのは親の罪。
子どもの質を考えなければならない世界に我々は突入しつつある」と語るなど
Edwards博士は生殖補助技術によって障害児が産まれるのを防ごうと主張してきた。

彼の医学上の功績とこうした政治的な発言を別ものとして切り離す立場こそが
リプロダクティブ・ライツと障害者の権利とを対立させているのであり、
彼の差別的な発言を問題にしないままEdwards博士を称賛すること一切に抗議する。

確かに彼の功績によって、
単身者や不妊に苦しむ人たち、同性愛者やトランスジェンダーの人たちが
生物学的に自分と繋がりのある子どもを持つことができるようになった。
しかし、女性と家族の選択肢を増やした彼の功績を
障害の廃絶を説くことによって正当化したり裏付ける必要はない。

また中絶に反対する立場の人たちがEdwards博士を批判するために
障害を持ち出すことにも我々は抗議する。
障害のある多くの人たちが生殖補助医療によって家族を持てるようになった。
確かに、中絶の決断をするにあたっては
女性も家族も障害について必要な情報がそろっていなかったり
障害のステレオタイプが根強いという懸念は我々にもあるが、
だからといって生殖補助技術に反対したり女性の権利を制限するべきではない。

もう1つは、英国のコラムニストVirginia Ironsideが中絶の権利に関して発言したさいに、
胎児に障害があると知りながら生むことは残酷で、中絶するのが“道徳的な無私の行為”、
自分に病気や障害のある子どもがいたら、愛情ある母親なら誰だってそうするように
自分は躊躇なく“枕を顔にかぶせる”と語ったもの。

これに関して書かれているのは、おおむね以下。

障害者の権利とリプロダクティブ・ライツ両方のアドボケイトとして、
中絶の権利を説くためのレトリックとして障害を使うことに抗議する。

リプロダクティブ・ライツとは、中絶へのアクセスのみならず、
障害のある子どもも含めて子どもを持つ権利、子育てに関する情報へのアクセス、
そしてすべての子どもを尊厳を持って育てるための社会的・経済的支援へのアクセスを
要求するものである。


私はものを知らないので、見知った名前はWilliam Peaceだけだけど、
既に多くの人が、賛同の署名をしている。

私は、イマイチ、割り切れないものがある。

「産む・産まないは私が決める」は、私も支持する。
「私だけが決める」じゃないと思うけど、でも
「最終的に決めるのは私」でないと、やっぱり、とは思う。

私が引っかかるのは、
「障害のある子どもを産む・産まないも私が決める」なのか、というところ。

そこのところが、私には、まだどう考えたらいいのか、よく分からない。

もしかしたら
ステートメントが言っていることに賛同はしつつ、
その言い方にひっかかっているだけなのかもしれない。
どこが、とはっきり言えないのだけど、どこかにご都合主義な匂いがあるような……。

障害者も生物学的に繋がりのある子どもを持てるようになったのだから
障害を盾にとって生殖補助技術そのものを否定するな、というところも、
生殖補助医療が生殖子や女性の身体を資源化して、
貧困層の女性の搾取につながる可能性や現に起きている現実を無視して、
それだけで語っていいのか、という疑問も頭に浮かぶ。

とりあえず、今の私はこのステートメントに、すっきり乗り切れない。

女性の選択する権利と障害者の権利の相克を
自分の中でどう折り合いをつけるか、
私はまだ答えが出ないまま、ぐるぐるし続けていて、
今の段階で私が言葉にできることは以下のエントリーで書いたことがせいぜい。


このエントリーを書いた直後に、
日本で早くからリプロダクティブ・ライツを訴えてきたSOSHIRENの大橋由香子さんと、
ずっと障害者運動に関わってきた当事者で翻訳家の青海恵子さんの往復書簡、
「記憶のキャッチボール 子育て・介助・仕事をめぐって」を読んだ。
(帯は「共通点、女で子持ち。」)

長年、運動と関わり、運動の中で思考を鍛えられつつ
闘い続けてきた2人の問題意識は高く、たいそう勉強になった。

2人は「産む・産まない」を“一度目の選択”
「障害児を産む・産まない」を“二度目の選択”と呼んで、
区別する必要を感じつつ、やはり、それだけでは済まないものを感じて、
そこにこだわり、ぐるぐるしている。

2人の「ぐるぐる」は、私の「ぐるぐる」なんかよりも
そして、もしかしたら、このステートメントよりも、
はるかに深いところにまで掘り下げられて、密度が濃い。

特に、障害当事者らが作った障害者差別禁止法要綱案で
選択的中絶の禁止を含む「出生」項目を巡っての2人のやり取りは迫力があった。

(案の原文が「選択的」となっていることについて、
大橋さんはそこは「選別的中絶」だと主張していて、その点、私もまったく同感)

この問題についての2人の議論についてエントリーを立てたいとずっと思いつつ
なかなか果たせていないので、興味のある方は2人の本を読んでください。

インパクトが大きかった言葉から1つだけ挙げておくと、青海さんの

女たちがどんな思いをして、どんな歴史を背負って、「産む・産まないは女(わたし)が決める」というスローガンにたどり着いたかが、男たちにはまだまだ伝わっていない
(p.124)

これ、Ashley事件を追いかけていると、障害者への強制不妊について
まった~く同じことを、ひしひしと感じるんだ。

法的・倫理的なセーフガードが、
障害者たちのどんな思いとどんな歴史を背負っていると思っているんだ、と――。


ちなみに、どこまで論旨を正確に読み取っているか自信がないので深入りしないけど、
Not Dead YetのStephen Drakeがこのステートメントについて
以下のポストを書いている。


NDYとしては生まれてきた後の障害者の問題で手いっぱいだから、として
中絶の問題にはコミットしないスタンスで一貫し、ちょっと距離を置いている。

それでも、こうしてブログでとりあげているところが、いいよね。

このポストにBill Peaceが
NDYがそういうスタンスをとっていることは分かるけど、
できれば参戦してくれれば、とコメントし、
Drakeが長いコメントを返している。そこに、
NDYの戦術上の悩ましさみたいなのがチラッとうかがえて興味深い。

この問題、誰にとっても、いろいろ悩ましいんだなぁ……。