英国のシンクタンクが「自殺幇助合法化は弱者に危険」と報告書

英国の 施策研究所 the Center for Policy Studies から
自殺幇助を合法化すると、弱者が expendable(処分可能) だとみなされ、
家族や官僚から早々と死ななければならないようにプレッシャーがかかる、
との報告書。

タイトルは Assisted Suicide: How the Chattering Classes Have Got it Wrong

主著者の Cristina Odone氏が記事の中で言っているのは
これまでもだいたい指摘されてきたことで、

"Legalising assisted suicide and euthanasia will put the socially marginalised at serious risk. Attempts to change the law should be resisted," she said.

"The elderly, people with severe disabilities, the mentally unstable, and those with terminal illnesses will be presented with self-inflicted death as a natural, normal and expected final solution."

Odone went on: "For the vulnerable, once it becomes enshrined in the law, this ‘right’ might turn into an obligation.

"They may feel that, once over a certain age, or grown too dependent on others, or too fed up with life, or too ill, they should opt for death."

"Worse, many may be coerced, actively or subtly, by cost-conscious hospitals, or by intended heirs with an eye to a legacy, or by exhausted carers.

"As assisted suicide becomes embedded in our culture, investing resources in caring for these vulnerable groups will be seen as a waste."


それに対して、Dignity in Dying から
いわゆる「すべり坂」論には、オレゴンやオランダから
エビデンスが出ているわけではない、

合法化してセーフガードを設けた方が弱者は守られる、と反論。



そのエビデンス、下記のように、そろそろ出てきているよ、とも思うのだけど、



でも、どうも、「死の自己決定権」ロビーって、
見たくないことは頑として見えないことにする、もしくは、
ヘリクツ並べて、「ある」事態も「ある」とは認めない姿勢なんじゃないのかな……とも。

だって、この場合の「すべり坂」って、
すべり坂が起こったと証明されるだけのエビデンスが揃う段階があるとしたら
それは、もう取り返しがつかない段階に至り大ぜいが死なされてしまっているわけで、

これは、そういう種類の「すべり坂」なんだから

「すべり坂」が起きるエビデンスを出せと主張することには、その発想自体に、
少々の人間が不当に死なされるということが起こったって
それはそれでやむをえないだろうという意識が織り込まれている。

つまり、
「すべり坂」を案じる人は「そういう死なされ方をする人間が
一人でも出るような社会にしてはいけない」と考えているのに対して、

「すべり坂は起こらない、起こるというならエビデンスを出せ」と言っている人は、
「そういう死なされ方をする人間が少々出るのはやむを得ないが
 そういう人が山のように出ることは防げるだろう」と考えている、ということでは?

それなら、後者の考え方自体が
すでに一定数の人間はexpendableだとかコラテラル・ダメージとみなしているわけで、
そういう人の頭の中でこそ、すでに「すべり坂」が起こっているんでは――?


【21日追記】

この報告書の主著者のOdone氏がTelegraphのブログに

自殺幇助は持てる者と持たざる者の問題だ、
DignitasのMinelliは持てる者の自殺幇助で金儲けをしている、と記事を書いています。

エラソーに何様のつもりだ、自分の考えを人に押しつけるな、と
寄せられたコメントが、いつものことながらタカビー。



障害のある生は生きるに値しないとか、価値が低いとされる問題でも、
結局のところ能力を巡っての「持てる者」あるいは「持っていると勝手に自認している者」と
「持たざる者」あるいは「持っていないと決めつけられている者」との話、

あるいは、単なる知的エリートの「傲慢」の話なんじゃないか……と
私は最近、そういう気がしていて、そのあたりをぐるぐるしている。

どこかの知的エリートの言辞に乗っかって同じような傲慢をかますことによって
自分もそのエリートと同じレベルなんだと錯覚していたい人たちも世の中には沢山いるし。