宿題やらず試験も受けず「うっせーばばあ」と言える子どもの幸せを考えてみた

前のエントリー「幼児化する親、幼児化していく社会」の続きとして――。

近所のマンションの2階が塾になっていて、
その辺りを通りかかると、時に小学生くらいの子どもたちが
マンションの出入り口からわらわらと吐き出されてきて
居並んだ車列の中から親の車を見つけては乗り込んで帰っていくのを目撃する。

いつも、なんということもなく見ている光景なのだけれど、
この前たまたま夜の10時過ぎに通りかかると、
出てきたばかりの子どもたちがマンション前で雑踏状態を作っていた。

その中を通り抜ける間のどこかの瞬間に、
わけもなく、突然ふっと想像してしまった。

朝起きて学校へ行って一日授業を受けて、
家に帰って塾へ行って夜の10時くらいまで勉強する生活というものを。

世の中の子どもという子どもがみんな(と思ってしまうほど、その時は沢山いたので)
朝から晩まで勉強してるって、改めて考えたら、それってどうよ???? 

そういえば、この前、知り合いが
夏休みに入って、受験生の息子(小学6年生)は毎日朝から夜遅くまで塾で過ごすので
朝、弁当を2つもって家を出る、その弁当を作るのが大変だ、と言って
私を心底たまげさせた。

そんな生活を毎日毎日毎日続けていることが
小学生にとって苦痛でないわけは、ないだろう、と思う。

自分がやれと言われたら、大人だって嫌なんじゃないだろうか。
どう考えても私には耐えられないし、誰かにやれと言われても、そんなのイヤだ。

子どもたちは、なんで反発・反逆しないんだろう?
なんだって「嫌だ」と言わないんだろう?

あんなに沢山の子どもたちが揃いもそろって
こんなの嫌だとモンクを言うこともなく
朝から晩まで勉強する生活を毎日毎日続けているという事実は
改めて考えてみると、ものすごく不気味な異常なことのように思えた。

こんなことを言うと、友人・知人は口をそろえて言う。
「だってそういう時代なんだもの」。

でも、時代が変われば、子どもが子どもでなくなるはずはないと思う。
時代が変わったら、子どもが大人になるということもないし、
時代が変わったら、勉強なんかしたくない子どもがいなくわけはないと思う。

時代が変わったんじゃなくて、
大人が変わり、親が変わったのでは?

親が変わったから、
子どもは変わったフリをさせられているだけなのでは?

親がそれを疑ってみることをしないために、
「時代が変わったんだ」というのを言い訳に思考停止しているだけなのでは?

本屋に行けば、
「子どもに○○させる方法」
「子どもを○○にする方法」
みたいな本がやたらと目につくけど、
子どもは親の目的を達成するための素材じゃないし、、

科学者たちまでが
何が成績を上げて、何が下げるかを研究してあげつらって見せるけど、
そういう研究をマジでやる学者がいることも異様だし、

そんな研究結果をマジに自分の子育てに取り入れて、
子どもにああしろこうしろという親がいるとしたら
そんなのは異常だとしか思えないし、

親が子どもを産み育てるということそのものが、
どこかで根本的に取り違えられ、いびつにゆがめられていく感じがしてならない。


              ――――――


角田光代さんが、妊娠した女性の心の揺れを細やかに描いて見事な作品
「予定日はジミー・ペイジ」(白水社 2007)の中に、
産婦人科医から母親学級を教えてもらい、
行かなければならないのか、と聞く場面がある。

「いかなくてはいけないものなのですか」と訊くと、例の、ほほほほほ、と聞こえる笑い方をして、
「おもしろいことを言うのね、あなた」と突然女言葉になる。「いきたかったらいったらいいし、いきたくなかったらいかなかったらいいのよ」
はぁ。とうなずいて、パンフレットをもらって病院を出る。
 なんだか私、「それはしなくてはいけないのか、しなくてもいいのか」と、ずっと言っているような気がする。したいからする、とか、したくないからしない、とか、そういう方向にあんまり考えられないんだな。いつからだろう、と考えて、大学生のころからだと気がついた。このオリエンテーションとやらは出なくてはらないのか、出なくともいいのか。この授業は受けなくてはらないのか、受けなくともいいのか。
 これは管理教育の弊害ではなかろうかと、突然思いつく。私たちは高校生まで、「してはいけないこと」「しなくてはいけないこと」に囲まれて育って、それで高校を出たら突然、したいからする式発想なんかできるわけがない。
 私たちの子どもには、そのことを教えなけりゃいかん。したいからする、したくないからしないという行動原理を、である。
 でもそんな教育方針で、ぐれてしまったらどうしよう。やれと言われた宿題なんにもやらないで、受けなけりゃいけない試験全部受けないで、鼻くそほじって、「うっせーばばあ」と言うようになったらどうしよう。
(p.132-133)

それから、夫婦で名前を考えている場面。字画のいい名前を名前辞典から書き出してみて、

「みなみとか、ちさとか、ゆうきとか、響きはいいんだけど、なんか漢字がさぁ、盗ってつけたような気がしない?」
「まぁなぁ、なんか当て字っぽいんだよなぁ、自然じゃないというか」
「もっとシンプルな漢字がいいよね」
「でもシンプルな人生になるかも……」
「シンプルな人生ってどんな?」
「なんの委員にもならずに、なんのクラブ活動もせずに、スポーツにもアニメにも音楽にものめり込まずに、公務員になって、お見合いして、結婚して、趣味もなく年老いて、定年して、趣味がないから家にいて、妻に邪魔に思われて、散歩とかして、眠るように死ぬ」
「しあわせのような気もするけど」
「まあね」
 私たちは紙と本の散らかったダイニングテーブルで、いっとき顔を見合わせる。おたがいが何を考えているかわかった。私たちはたぶん、順当にいけば、今おなかにいる赤ん坊が老いて死ぬところを見られないのだ。定年して妻に邪魔にされていても、助けてあげることができないし、眠るように死ぬときも、手を握っていてあげることもできない。
(p.185-186)

既に3歳の子どもがいる友人が言う言葉。

「子どもができるとね、時間が過ぎることが心底実感できるんだよね。それで、過ぎたものは過ぎたもので、もう二度と帰ってこないって思うわけ。今日のこの子の笑顔とか、それはもう今日だけのもので、明日にはそれは失われているわけね。永遠に戻ってこないの。もちろん別の笑顔が見られるわけなんだけど、今日の笑顔はもうおしまい。
(p.192)

……(中略)……

 子どもを産むということは、時間を手に入れることかもしれない、と私はふと思い、思ったままを言ってみた。
「そうね、そうだ、ほんと」
 Kはまじめな顔をして幾度もうなずく。「時間ってのはいつもいつも流れているんだけど、子ども産んだとたん、それが目に見えるようになる」
(p.193-194)


みんなで「そういう時代なのだから」といって、社会が
子どもをコントロールし虐待する人格の未成熟な親そのもののような場所になってしまわないために、

大人が思いださなければいけない大切なことを、
角田さんはこの作品によって書いてくれているような気がする。



ちなみに、角田氏が音羽幼児殺害事件をモデルに書いた
「森に眠る魚」(双葉社 2008)では、

それぞれの理由や事情で自己肯定感の低い母親たちが
「お受験」の周辺文化に翻弄され狂気へと追い詰められていく。
誰もが犯人であってもおかしくない狂気へ。

エピローグで、いずれかの母親が「この子に与えようとしているつもりだったのに、
いったい、私はどれほどのものをこの子から奪ってしまったのか」と自問する場面が
とても印象的だった。