米小児科学会の女性器切除に関する指針撤回:Diekema医師の大チョンボ

今年5月22日の補遺でこの話題を拾った際、
私は、以下のように書きました。

米国小児科学会が女性器切除をある程度許容するガイドラインを出したことで、批判を浴びている。
当該委員会の委員長はDiekema医師。

現場の医師としては、親に言ってこられた際に断固はねつけたのでは信頼関係が作れない、
もともとそういう文化の母親たちなのだから、
断ったら、却って少女たちは海外へ連れて行かれて
不衛生な手術や、もっと侵襲度の高い手術を受けさせることになる、

最近の切除は形だけのものが多くなっている、
男児の割礼と同じく衛生上のメリットが全然ないわけでもない・・・・・・などなど。

:それで、人権意識は、どこに?


この時に拾ったCNNの記事はこちら

この記事によると、米国内での女性器切除は違法行為。
しかし、移民によって米国内に持ち込まれる女性器切除の文化は根強く、
秘密裏に行われる切除が後を絶たない。実態も把握しにくい。

米国内で22万8000人もの女性が切除されたりリスクに直面しているとの研究も。

そこで4月に規制が強化され、
娘を強制的に海外に連れ出して切除を行う親を犯罪者として取り締まることに。

そこへ登場したのが米国小児科学会の方針で、
移民コミュニティで臨床を行う医師には“文化的な要請に応えるために”
女児のクリトリス表皮をわずかに切除する(prick or nick)ことを認める内容のもの。

(以下のLantos講演では、nickされるのはクリトリスではなくラビアの一部とされています。
指針からの引用が読み上げられているので、こちらが正しいのでは、と思います)

当時ものすごい数が出ていた報道では、
怒涛のような非難の中、委員長であるDiekema医師は
「認めなければ少女たちは生まれた国に連れて行かれて、
もっとひどい目に遭うことになる」とか
「現実問題として対処すべき」と抗弁していました。

上記CNNの記事では、NYのアフリカ女性のための人権擁護団体から
「一人の人に、してもいいと認めることによって
女性器切除を止めようと行われている教育とアドボカシー活動が損なわれてしまいます」と
はるかに説得力のあるコメント。

小児科学会のサイトには「あんたら、気は確かか?」という小児科医からのコメントもあったとか。

その後、この問題がどうなったのか、フォローできずにいたのですが、

先月行われたシアトルこども病院Truman Katz生命倫理センターの
今年の生命倫理カンファにおいて(つまりDiekema本人の本拠地まっただなかで)
この方針を取り上げ、徹底的に批判した人がいます。


Lanton医師についてはこちら。 Webcastはこちら

あくまで私が聞き取れた範囲(おぼつかないのです。スミマセン)でのことになりますが、
Lanton講演によると、

米国小児科学会はこれまで女性器切除を
mutilation(野蛮な身体の切除)と捉えていたとのこと。

それが今回、突然、
ただのritual nick(形式的に、ちょん、とカットするだけ)に過ぎないと認識を転換し、
男児の包皮切除や、こともあろうにピアスと変わらない、とまで。

米国の医師が拒んだら生まれた国に連れて行かれ、もっとひどい事態になるのだから、
米国でritual nickを受けることは本人の最善の利益なのだ、とか
親の文化的な価値観を認めることは医師と親との信頼関係に資する、
などなどと、いかにもDiekemaらしい詭弁を並べていたらしい。

ここで、やっぱり私の頭によぎるのは、
アフリカを中心に途上国に薬とワクチンとテクノロジーで乗り出していき
母子保健とエイズ対策で強引に介入しようとしているGates財団のこと。

Gates財団とシアトルこども病院との繋がり。
Ashley父とDiekema医師の繋がり。

そこのところにこそ、
米国の医師と、そうした途上国の親たちとの”信頼関係”を築いておきたい人たちがいる。
その人たちは男児の包皮切除を安上がりなエイズ予防手段として推進していたりする。

そんなことを、私は個人的に、勝手な連想として、思い浮かべる。


ともあれ、
5月に嵐のような批判を浴びていたDiekema著・小児科学会の方針は
その後、撤回されたとのこと。

小児科学会のサイトでは、現在この方針のページは
何故か「機能していない」そうな。

Lantos医師の口調は冷静ながら、
方針からの引用部分を読みあげる声には「ふざけるな」という憤りが滲み、
ここから先、批判の舌鋒を鋭くして畳みかけていきます。

な~にが「文化的価値観」か、
文化的な相対性を超えた、uncompromising moral commitmentsというものがある。

道徳的な正当性を議論することそのものが不道徳だと感じられるほどに
基本的、根本的で、議論の余地のない、
文化を超えてユニバーサルな、道徳的スタンダード(norm)というものがあるのだ。

夫に先立たれた妻を焼き殺すことに賛成する人はいますか?
カニバリズムに賛成の人は?
子どもを性労働者として売買することは?
クリトリス切除は?

少なくとも生命倫理の問題に興味を持とうかという人たちの中には
これらに賛成する人はいない。

小児科学会倫理委が言う“ritual nick”に反対する人は、
その行為が、ただ間違っていると考えるのではなく、
絶対に動かしがたく、根本的に、犯罪的なほど間違った行為だと確信しているのであり、

問題になっているのは行為そのものですらない。

その行為が象徴している、
女性をそのように虐げる文化的宗教的経済的なシステムを問題にしているのである。

したがって、この論争で問題になるのは
本当は女性器切除が許されるかどうかではない。

問題は、誰もが白と黒しか見ないところに、
文化的相対性を持ち込んだりして灰色を見ようとする一部の人たちがいることの方だ。

そして、灰色ゾーンが動かされていくこと。

社会的経済的政治的要因が諸々絡まり合うと、
本来なら存在しない灰色ゾーンが作られていくことこそが問題なのだ。

……という具合に、Lantos医師はコトの本質を鋭く突いています。

その言わんとするところは、
当ブログでもずっと考えてきた「尊厳」の問題とも繋がって、

当ブログが「尊厳」についてこだわるきっかけになったのが
去年のDiekema医師のAshleyケース正当化論文での
「尊厳は定義なしに使っても無益な概念」発言だったことは
いかにも象徴的に思われます。(このあたりの詳細は文末のリンクに)

Lantos講演の内容は
AshleyケースについてNaomi Tanが書いていた
「医師の道徳的な義務とは自身に対して負うもの」
人類のヒューマニティを損なわないために、自分のヒューマニティも損なってはならず、
だからやってはならないのだ、という主張にも通じていくような気がします。
(このあたりの詳細も、文末のリンクに)

なお、女性器切除に関する小児科学会の方針は
意図的に動かされ、作られる「灰色ゾーン」の1例として挙げられたもので、

それをいうなら、同じくDiekemaの手による
小児科学会倫理委の「栄養と水分の差し控え」に関するガイドライン
同じくらい酷い代物でしたが……。