米小児科学会の女性器切除に関する指針撤回:Diekema医師の大チョンボ
この時に拾ったCNNの記事はこちら。
この記事によると、米国内での女性器切除は違法行為。
しかし、移民によって米国内に持ち込まれる女性器切除の文化は根強く、
秘密裏に行われる切除が後を絶たない。実態も把握しにくい。
しかし、移民によって米国内に持ち込まれる女性器切除の文化は根強く、
秘密裏に行われる切除が後を絶たない。実態も把握しにくい。
米国内で22万8000人もの女性が切除されたりリスクに直面しているとの研究も。
そこで4月に規制が強化され、
娘を強制的に海外に連れ出して切除を行う親を犯罪者として取り締まることに。
娘を強制的に海外に連れ出して切除を行う親を犯罪者として取り締まることに。
そこへ登場したのが米国小児科学会の方針で、
移民コミュニティで臨床を行う医師には“文化的な要請に応えるために”
女児のクリトリス表皮をわずかに切除する(prick or nick)ことを認める内容のもの。
移民コミュニティで臨床を行う医師には“文化的な要請に応えるために”
女児のクリトリス表皮をわずかに切除する(prick or nick)ことを認める内容のもの。
当時ものすごい数が出ていた報道では、
怒涛のような非難の中、委員長であるDiekema医師は
「認めなければ少女たちは生まれた国に連れて行かれて、
もっとひどい目に遭うことになる」とか
「現実問題として対処すべき」と抗弁していました。
怒涛のような非難の中、委員長であるDiekema医師は
「認めなければ少女たちは生まれた国に連れて行かれて、
もっとひどい目に遭うことになる」とか
「現実問題として対処すべき」と抗弁していました。
上記CNNの記事では、NYのアフリカ女性のための人権擁護団体から
「一人の人に、してもいいと認めることによって
女性器切除を止めようと行われている教育とアドボカシー活動が損なわれてしまいます」と
はるかに説得力のあるコメント。
「一人の人に、してもいいと認めることによって
女性器切除を止めようと行われている教育とアドボカシー活動が損なわれてしまいます」と
はるかに説得力のあるコメント。
小児科学会のサイトには「あんたら、気は確かか?」という小児科医からのコメントもあったとか。
その後、この問題がどうなったのか、フォローできずにいたのですが、
先月行われたシアトルこども病院Truman Katz生命倫理センターの
今年の生命倫理カンファにおいて(つまりDiekema本人の本拠地まっただなかで)
この方針を取り上げ、徹底的に批判した人がいます。
今年の生命倫理カンファにおいて(つまりDiekema本人の本拠地まっただなかで)
この方針を取り上げ、徹底的に批判した人がいます。
今年1月にAJOBでAshley事件の大デタラメを指摘したJohn Lantos医師。
あくまで私が聞き取れた範囲(おぼつかないのです。スミマセン)でのことになりますが、
Lanton講演によると、
Lanton講演によると、
米国小児科学会はこれまで女性器切除を
mutilation(野蛮な身体の切除)と捉えていたとのこと。
mutilation(野蛮な身体の切除)と捉えていたとのこと。
米国の医師が拒んだら生まれた国に連れて行かれ、もっとひどい事態になるのだから、
米国でritual nickを受けることは本人の最善の利益なのだ、とか
親の文化的な価値観を認めることは医師と親との信頼関係に資する、
などなどと、いかにもDiekemaらしい詭弁を並べていたらしい。
米国でritual nickを受けることは本人の最善の利益なのだ、とか
親の文化的な価値観を認めることは医師と親との信頼関係に資する、
などなどと、いかにもDiekemaらしい詭弁を並べていたらしい。
Gates財団とシアトルこども病院との繋がり。
Ashley父とDiekema医師の繋がり。
Ashley父とDiekema医師の繋がり。
そんなことを、私は個人的に、勝手な連想として、思い浮かべる。
ともあれ、
5月に嵐のような批判を浴びていたDiekema著・小児科学会の方針は
その後、撤回されたとのこと。
5月に嵐のような批判を浴びていたDiekema著・小児科学会の方針は
その後、撤回されたとのこと。
小児科学会のサイトでは、現在この方針のページは
何故か「機能していない」そうな。
何故か「機能していない」そうな。
Lantos医師の口調は冷静ながら、
方針からの引用部分を読みあげる声には「ふざけるな」という憤りが滲み、
ここから先、批判の舌鋒を鋭くして畳みかけていきます。
方針からの引用部分を読みあげる声には「ふざけるな」という憤りが滲み、
ここから先、批判の舌鋒を鋭くして畳みかけていきます。
な~にが「文化的価値観」か、
文化的な相対性を超えた、uncompromising moral commitmentsというものがある。
文化的な相対性を超えた、uncompromising moral commitmentsというものがある。
道徳的な正当性を議論することそのものが不道徳だと感じられるほどに
基本的、根本的で、議論の余地のない、
文化を超えてユニバーサルな、道徳的スタンダード(norm)というものがあるのだ。
基本的、根本的で、議論の余地のない、
文化を超えてユニバーサルな、道徳的スタンダード(norm)というものがあるのだ。
小児科学会倫理委が言う“ritual nick”に反対する人は、
その行為が、ただ間違っていると考えるのではなく、
絶対に動かしがたく、根本的に、犯罪的なほど間違った行為だと確信しているのであり、
その行為が、ただ間違っていると考えるのではなく、
絶対に動かしがたく、根本的に、犯罪的なほど間違った行為だと確信しているのであり、
問題になっているのは行為そのものですらない。
その行為が象徴している、
女性をそのように虐げる文化的宗教的経済的なシステムを問題にしているのである。
女性をそのように虐げる文化的宗教的経済的なシステムを問題にしているのである。
したがって、この論争で問題になるのは
本当は女性器切除が許されるかどうかではない。
本当は女性器切除が許されるかどうかではない。
問題は、誰もが白と黒しか見ないところに、
文化的相対性を持ち込んだりして灰色を見ようとする一部の人たちがいることの方だ。
文化的相対性を持ち込んだりして灰色を見ようとする一部の人たちがいることの方だ。
そして、灰色ゾーンが動かされていくこと。
社会的経済的政治的要因が諸々絡まり合うと、
本来なら存在しない灰色ゾーンが作られていくことこそが問題なのだ。
本来なら存在しない灰色ゾーンが作られていくことこそが問題なのだ。
……という具合に、Lantos医師はコトの本質を鋭く突いています。
その言わんとするところは、
当ブログでもずっと考えてきた「尊厳」の問題とも繋がって、
当ブログでもずっと考えてきた「尊厳」の問題とも繋がって、
当ブログが「尊厳」についてこだわるきっかけになったのが
去年のDiekema医師のAshleyケース正当化論文での
「尊厳は定義なしに使っても無益な概念」発言だったことは
いかにも象徴的に思われます。(このあたりの詳細は文末のリンクに)
去年のDiekema医師のAshleyケース正当化論文での
「尊厳は定義なしに使っても無益な概念」発言だったことは
いかにも象徴的に思われます。(このあたりの詳細は文末のリンクに)
Lantos講演の内容は
AshleyケースについてNaomi Tanが書いていた
「医師の道徳的な義務とは自身に対して負うもの」、
人類のヒューマニティを損なわないために、自分のヒューマニティも損なってはならず、
だからやってはならないのだ、という主張にも通じていくような気がします。
(このあたりの詳細も、文末のリンクに)
AshleyケースについてNaomi Tanが書いていた
「医師の道徳的な義務とは自身に対して負うもの」、
人類のヒューマニティを損なわないために、自分のヒューマニティも損なってはならず、
だからやってはならないのだ、という主張にも通じていくような気がします。
(このあたりの詳細も、文末のリンクに)
なお、女性器切除に関する小児科学会の方針は
意図的に動かされ、作られる「灰色ゾーン」の1例として挙げられたもので、
意図的に動かされ、作られる「灰色ゾーン」の1例として挙げられたもので、
【関連エントリー】
「尊厳は定義なしに使っても無益な概念」を、ぐるぐる考えてみる(2009/6/29)
大統領生命倫理評議会の「人間の尊厳と生命倫理」と「おくりびと」(2009/6/30)
MN州の公式謝罪から「尊厳は無益な概念」を、また考えてみる(2010/6/17)
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