「学校で無料コンドーム」問題に見る「子どものプライバシー権」と「親のプライバシー権」の対立

前の二つのエントリーで「プライバシー権」を考えてみるきっかけになった
マサチューセッツ州の「学校で無料コンドーム配布」事件について
いくつか記事を読んでみました。


6月8日、マサチューセッツ州Cape Cod市の
Provincetown学校委員会が全会一致で通した方針は、
来年度から、小学校から高等学校までの生徒が、学校のスクールナースから
無料のコンドームをもらうことができるようにする、というもの。

親からは学齢期前の子どもがコンドームを入手できるのでは、との懸念や、
自分の子どもにはやりたくない、どうしても必要なら親が、との声も上がるが、

新たな方針では
コンドームをもらったことを親に通知する必要もなく、
また親が反対した子どもに渡すことを禁じることもしていない。

スクールナースと話をし、
安全なセックスについてのアドバイスを受けられるので、
子どもと大人の間でセックスに関するコミュニケーションが図りやすくなる、と
ガイドラインを執筆した学校委員会の責任者。

Provincetown to make condoms available at all schools
The Boston Globe, June 23, 2010/07/27



このニュースを受けて、Boston Globe紙が取材したところ、
Massachusetts州の24以上の学校区で、何年も前から
子どもたちにコンドームを与えていた。

論議を呼んでいるProvincetownのガイドラインでは
子どもたちは少なくともスクールナースと話をし、
安全なセックスについてアドバイスを受けた上でもらうことになっているが、
それよりもはるかにおおらかな学校区もあり、

Lexington 高校では
ガイダンス室や保健室に置いてある籠の中から
生徒が自由に持って行ってもいいことになっている。

Cambridge Rindge & Latin校がMA州で初めて
学校付属の医療センターでコンドームを配布し始めたのは1990年。

その1年後に、Falmouth学校区が
MA州で初めてトイレにコンドームの販売機を設置し、大きな論争となった。

学校区の責任者は
当時、教会のミサで地元の神父から叱責されたという。

複数の保護者が学校区を相手取って訴訟を起こしたが、
州の最高裁は1995年に学校区の方針を支持し、論争も収まった。

Falmouth学校区の学校では
販売機のコンドームが75セントで売られている一方で、
保健室の籠からは無料でとることができる。

去年1年間に学校で配られた無料コンドームは900個。

今回のProvincetownの新たな方針がメディアの関心を呼び、
不同意の姿勢を明らかにした知事が介入。

学校区は5年生以上に年齢制限を設ける方向でガイドラインを修正する模様。

他にHolyoke学校区でも、
6年生以上ならProvincetownと同じガイドラインでコンドームをもらえるが
Provincetownと違って、親によるオプトアウトが可能。

2004年にプログラムを開始した同学校区のスーパーインテンデントは
子どもたちの性病の発生率が低下したことをあげ、
最初は論議を呼んだが、今ではみんなが満足している、と。

95年の裁判所の判断では、
生徒がコンドームを希望したことについて秘密にする権利を学校に認め、
子どもがコンドームを受け取ることを親が拒むことを禁じた。

「コンドームの販売機が子どもの目に触れたり、
学校で配布するプログラムそのものも、
原告側の道徳や宗教感情にはそぐわないかもしれないが、
学校にそうしたプログラムがあるということだけで
憲法上の親の自由が侵害されたことにはならない」

Condoms old news in many schools
The Boston Globe, June 28, 2010


前に、未成年者の中絶を、親に知らせる義務が医療職にあるかどうかという議論を、
ちょっとだけ読んだ記憶があるのですが、
基本的にはそれと通じていく問題。

確かに、この問題は前の2つのエントリーでまとめた
Griswold事件や、米国のプライバシー権に直結しているようで、

いずれも問題は
「子どものプライバシー権」 vs. 「親のプライバシー権」という構図。

95年のMA州最高裁の判断では
子どものプライバシー権が親のプライバシー権を上回ると解釈されたものと思われ、

親の「道徳や宗教感情」に言及しつつ原告の訴えを却下していることは
道徳は社会の選好に過ぎないので、法に道徳を持ち込むことは間違いで、
それに代わって、法で禁じることの利益と害の比較考量で判断すべき、という
前のエントリーで読んだ論文で著者の坂本氏が説く、功利主義的な立場に
合致しているようにも思います。

が、科学とテクノロジーの進歩や、過酷な弱肉強食型グローバル経済を背景に
子どもに対する親のコントロールがどんどん強力になって行く現在、
70年代に整理された坂本氏の功利主義的解釈が
そのまま当てはまめられるとも思えず、

また、そもそも今回こういうニュースが報じられて論争となり
知事の介入まで招いていることを考えると、

95年のMA州最高裁の子どものプライバシー寄りの判決が
このまま不変だとも思えず……。

もしかして、米国のプライバシー権は、今後、
親が自分の好きなように子育てをし、家庭を営む権利としてのプライバシー権だけを
強化していくのではないでしょうか。

もしも子どもの個人としてのプライバシー権を本当に尊重するなら、
出生前遺伝子診断とか、デザイナーベビーとか、
自分の子どもの遺伝子を親が検査させて情報を知ることとか、
難しい問題が、芋づる式にぞろぞろと出てくることになり

親の決定権にとっても、科学とテクノロジーにとっても
非常に不利なことになりそうです。

(リベラルな親の決定権と、キリスト教原理主義者の親の決定権では、
個々の判断内容はまるで逆向きの話になりそうでありながら、それでいて、
「親の愛」を根拠に親の決定権を強化していく方向という1点において
両者は合い通じていきそうに思われるあたりが、また、なにやら恐ろしい)

親のプライバシー権と子どものプライバシー権の間には相克がある。

それを、ただ「親の愛情」や「子どもの最善の利益」などで曖昧にごまかして
結局は親のプライバシー権だけを強化していくのではなく、

そこに相克があることをきっちりと認識し、
未成年であっても、また障害のある子どもであっても、
「親のプライバシー権」の横暴で踏みにじられないだけの
個人としての「子どもの側のプライバシー権」が、しっかり守られるべく、
規制事実が積み重ねられてしまう前に、議論とセーフガードが必要なのだと、

改めてAshley事件を振り返りつつ、考える。