英国で、介護者による自殺幇助を事実上合法化する不起訴判断

去年11月に以下のエントリーで取り上げた事件で、きわめて重大な続報。


去年の秋、妻Margaetさんのヘリウム自殺を幇助した夫Michael Bateman氏に対して、
英国公訴局は不起訴の判断を下しました。

CPS(英国検察局)の特別犯罪決定部門の弁護士が決定し、
自殺幇助の起訴について最終的な承認権限を持つ公訴局長(DPP)が認めたもの。

前者の弁護士 Bryan Boulter氏が起訴が公益にならないと判断した理由としては、

・頭にかぶった袋のひもを締めたのもガスのスイッチを入れたのも妻自身
・何年も慢性的な痛みに苦しんできた妻に自殺したいとの希望があったのは明らか
・夫の動機が完全に共感・おもいやりからのものであることは非常に明らか
・妻を深く愛し、何年も日々のケアを担ってきた
・警察の捜査にも協力し、自殺を手伝ったことを認めている
・経済的な動機からしたことだと思わせるものは何もない

このケースの不起訴判断により、英国は法改正をすることなしに、
世界のどの国にも先駆けて、事実上、身近な者による自殺幇助を合法化したのでは――?


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このケースについて、
私がものすごく気になっているのは、
何年も寝たきりだった妻のMargaretさんの障害が
医師によって診断されていないこと。

それは、適切な医療介入や支援が入ることで、もしかしたら
状態が改善する可能性があったということかもしれないのに、

そこのところの支援の可能性を言う人がどこにもいないまま、
ただ本人の長年の苦しみと夫の献身だけが言われ、
夫が愛からしたことだから死なせても罪に問わないというのは
ちょうどGilderdale事件の構図とそっくりだ。

夫婦も親子も、家族の関係は密室の中にある。
これについては冒頭リンクの11月のエントリーにも書いたけれど、
介護する人と介護される人との関係だって、それほど単純じゃない。

Margaretさんの自殺幇助も密室で起こったことだ。
頭にかぶった袋のひもを締め、ガスのスイッチを入れたのが本人だというのは
夫の証言以外にありえないと思うのだけど、

それが事実だということは、一体どうやって証明できるというのだろう。

仮に本当に本人だったとしても、
家族のような濃密な関係性の中で、人は互いに操作・コントロールしあうものだ。
家族に操作・コントロールされて、本当は望んでもいないことを
あたかも自ら望んでいるかのように演じつつ、やらされている人は、
子どもにはもちろん、大人にだって、いないわけではない。

もしも、介護する人される人の間に、そういう関係性が潜んでいたら、
介護されている人に「死にたい」と言わせるくらい、たぶん簡単なことだ。

そうじゃなくても、介護される立場で全く罪悪感を感じずにいることなど難しいのだから。

そもそも人の愛というもの自体が、愛があれば100%単色の愛だけ、というようなものじゃない。
愛と憎とは合わせ鏡だし、人の気持ちは常に揺れ動いて定まらず、決して単色ではない。

愛のステレオタイプほど、人の心の複雑さを見えにくくしてしまうものはない。
それだけに、愛が口実に使われる時、そこには警戒しなければならないものが匂ってくる。


介護を巡っては、
家族に愛情さえあれば、どんなに過酷な介護だって担えるはずだという神話によって
巧妙に介護を家族に押しこめる仕掛けが社会にあると
私はずっとこのブログで書いてきたのだけれど、

そうした家族の愛情神話が温存されたまま、それが、くるっと陰画に反転されて、
ここで自殺幇助の正当化に利用され始めているような気がしてならない。

愛があれば介護は担えるはずなのだから、愛がなければ介護は担えないわけで、
介護している事実は、すなわち愛情の証明になる。
だから逆に介護さえしていれば、死なせたって、それは愛の行為であり、
DPPのガイドラインに沿っていると解釈することに矛盾はない。

それなら、介護者による自殺幇助は不起訴がデフォルトということだ。

それは、つまるところ、
愛情の証明として介護を担うことと引き換えに、
夫婦や親子の間にある微妙な関係性の綾とか闇には目をつぶって、
殺しても免罪してあげますよ、表向きの帳尻を合わせてくれさえすれば……
……という社会と介護者の間の暗黙の取引にはならないのか――?

それは、煎じつめれば、
家族で介護しきれなくなった障害者は
愛情を証明できる期間の介護を経たら、それなりの表向きを取り繕って
殺してもらって構わない、というメッセージにはならないのか――?