シンガポールで末期がん女性が自殺幇助を希望

元教師の女性Lim Kim Keowさん(56)は
2008年にふくらはぎに癌が見つかり、闘病を続けてきたが
現在では全身に転移して、医師から余命数週間と言われている。

助からないのなら無意味な延命治療はやめてもらうよう
事前指示書を書き、既に治療の一切を拒んでいる。

痛みは現在コントロールできているが、
この先、自分ですべてをコントロールできるという状態でなくなったら
自殺幇助を求めることもできなくなってしまうので、
その前に子どもたちに見守られ夫の腕の中で死にたいのだと言う。

先月、Hong Lim公園のスピーカーズコーナーで
シンガポール初のターミナルな患者の自殺幇助希望の声を挙げる予定だったのだけれど、
そこまで行く体力がなく、断念した。

そこで新聞社に手紙を書き、インタビューを希望したが
病院側が病状を理由に許可せず、これも実現しなかった。

で、電話でのインタビューに

「こんな状態の私を介護するのは、負担が重すぎます。
たとえ家族が介護してくれると言っても、私自身が
そんなことをしてもらうのは嫌だし、嬉しくない」

「排便するためにトイレに行くこともできません。
自分では出せないので看護師さんに掻き出してもらうんです。
そんなの、人間として、どんな尊厳が残っているというんですか」

「若いころ、マヒのある人とか車いすの人を見て、
自分があんなになったら生きていたくないと思っていました。
何もかも人に頼らなければならないなんて、死ぬよりひどいです」

2008年に安楽死と医師による自殺幇助合法化を説いた
シンガポール神経科学研究所所長のDr. Lee Wei Lingにも
協力を求める手紙を書いた。

保健相はKeowさんの願いを知って、自殺幇助は違法行為だとのみ。
しかしKeowさんは、訴え続ければ大統領が介入してくれると信じているそうだ。

“I want to die now”
ASIAONE, May 7, 2010



ついに、アジアでも、Debbie Purdyさん――。
これから、各国で続々と出てくるのでしょうか。

記事には、病院のベッドでパジャマ姿だけど妙に力強いガッツポーズをしている
見るからに“普通のオバサン”の写真があって、

やっぱり、Purdyさんよりも、
このアジアのオバサンであるKeowさんには
ぐっと親近感というかリアリティを感じるものだから、

そのアジアのオバサンが繰り返す「家族の負担になることの心苦しさ」は
直接的に我が身に沿ってくる。

そこで頭に浮かんだ、とても卑近な話。


日ごろ、「女が寝込むって、ほんと、情けないよねぇ」と
妻・母・主婦である女たちは、しみじみ語り合っている。

妻・母・主婦である女が病気で寝込むと、ひどい家族は
寝ている病人に向かって「ご飯まだ?」と平気で要求するらしい。

私の友人の一人は、手術を受け、やっと退院して帰った日に、
起きて動いていると辛いから寝ていたら、
夕方、夫が部屋を覗いてくれたと思うや、
この「ご飯まだ?」をやられたそうな。

もうちょっとマシな家族は「気にしないで寝てて」と言って、
夫が子どもたちを外に食事に連れて行ってくれたりするらしい。

友人の一人は風邪で寝込んだ時にそんな夫に
「いいところがあるな」と惚れ直していたら、
手ぶらで帰ってきた家族は友人のベッドをみんなで囲んで
誰が何を食べたかという話を聞かせてくれたという。

やれ誰が食べたものは美味しかったの、誰のはまずかったのと楽しそうな家族を前に、
友人は情けなさを押し隠し、「私のは――?」という言葉を飲み込んだそうな。

そんな家族に、いきなり
うどんくらい作って持って来い、
ポカリスウェットを枕元に置いておけ、
汗ふき用のタオルと着替えのパジャマを手の届くところに出しておけ、
寝る前には、たまご酒を作って持ってこい、なんて言える……?

ヤツらが寝込んだ時には、彼女が当たり前のようにしてやってきたことなんだけど。

まぁ、そこまで要求するのは酷だとしても、
たとえば「お鮨が食べたいから買ってきて」と頼めるためには
せめて病気の時くらい無理してご飯を作らず寝てていいんだと感じさせてもらえる家族でないと……。

でも、介護される側になるということは、
実際には、うどんやポカリをはるかに上回るであろう配慮と実際のケアを、
無言で、しかし否応なしの強引さで、しかも一日こっきりじゃなく、毎日毎日延々と
要求し続ける人になることでもあって、

そもそも夫や子どもが妻・母のケアを受ける事態には、
ケアを“要求している”という捉え方そのものがあまりなさそうなのに、
妻・母が要介護状態になることには、やはり“役割逆転”が意識されているからこそ
ケアを受ける側になることを想像するだけで、そういう感覚が生じてくるように思われ。

もちろん、それだけの単純な話ではないとは思うし、
本人と家族のキャラや、関係性によっても違うのは当たり前だけれど、

本来なら「愛を与える人」であり続けるべきなのに
「日々、現実的な負担という形の愛を要求し続ける人」となるくらいなら、
夫の腕に抱かれて死んでいくという形で一回こっきり「究極的に愛される人」になることを
選ぼうとする女性……と、Keowさんがイメージされてしまって、

家族の負担になるくらいなら自殺幇助を受けて死にたいという女性のパートナーたちは
そういう話を前に、どうしてニコニコしていられるのか、と
いつか英国の女性ジャーナリストが書いていた疑問を思い出した。

まず、妻・母が体調を崩して寝込んだ時に、
小さな子どもや障害のある子どもがいても、その子どものケアを安心して誰かにバトンタッチできる、
そして、この際インスタントでもいいし、誰でもいいから、家族の誰かが、温かいうどんを
寝ている病人の枕元にもってきてくれるような家族や社会の意識と、あり方の変革……というところから、
この問題、考え直すことはできないのかなぁ……。

それは、つまり、
前に書いた大人なら誰でも基本的な家事・育児・介護ができる社会ということなのだけど。

一見、ものすごく迂遠な方法に思えるけど、
でも本当は案外こういうところが本質的な問題だったりもするんじゃないのかなぁ……。