CT州の障害者権利擁護局が「自殺幇助合法化訴訟に障害者の視点を」と動議

3月9日の補遺で拾いましたが、Connecticut州で自殺幇助合法化を求める訴訟が起きています。

2人の医師とC&Cとが起こしたもので、
ターミナルで死を望む患者に致死薬を投与する医師の行為を罪に問わないように求めているもの。

その訴訟で、
同州の障害者の保護・アドボカシー局
Office of Protection and Advocacy for Persons with Disabilities(OPA)が
障害者アドボケイト、 Catherine D. Ludlum、Claude Holcombの2氏と共に
最高裁に動議を提出し、この訴訟に障害者の視点が含まれるよう介入を求めています。

具体的には

1) 障害によって失われたものに適応する過程にある人や、
施設に入らずに自立生活を送るために必要な支援を見つけることが出来ずに失望してしまった人が、
くじけそうになったり希望を失いそうになるのは人間なら当たり前の気持ちなのだが、

人として当たり前の、その気持ちが、時として
打ち勝ちがたいほどに強くなることがあるのだということ。

2) 医師を含む、医療職側に、
QOLについて、また障害と「不治の病」の区別について
予見や無意識の偏見があること。

動議は、
死に瀕してもいない患者からの治療の差し控えや中止が医師らによって決められてしまったために
障害者の生命を保護するためにOPAが行動を起こさざるを得なかった事例をいくつか挙げている。

またLudlum、Holcomb両氏も、これまでの医療職とのやり取りの中で、
本人確認や病歴などにおいて基本的な事柄で誤解が起きたり「苦しんでいる」と決めつけられたり、
誤ったQOLについての思い込みに基づく医療決定が行われた体験を述べている。

OPAの局長James D. McGaughey氏は

医師による自殺幇助(PAS)が合法化されれば、
障害者には致命的な影響が出ることになるのは間違いない。

この訴訟は公序良俗に大きな影響を持っている。

ヨーロッパその他でのこれまでの事例を見ても、
医師による自殺幇助が合法化されると
真に思いやりのある終末期ケアの選択肢は減っていき
法の適用範囲を規制する試みも濫用を防ぐには至っていない。

また、医療コストの削減がしきりに強調されている現在、
“お荷物”とみなされる人にPASが期待されるだろうことも
懸念しなければならない。

Disability Rights Advocates Move to Intervene in Assisted Suicide Case
Office of Protection and Advocacy for Persons with Disabilities(OPA), April 8, 2010


これまでの英米での自殺幇助合法化議論において
行政サイドの障害者権利擁護の立場から、ここまで大きな動きがあったのは初めてではないでしょうか。


以下のNot Dead Yetのエントリーに
動議の具体的な文章が紹介されています。
http://notdeadyetnewscommentary.blogspot.com/2010/04/connecticut-affidavit-of-james-d.html

また、お馴染みBac CrippleことWilliam Peaceさんも、
この問題を取り上げています。
http://badcripple.blogspot.com/2010/04/assisted-suicide-some-get-inherent.html


これらの論点は、すべて当ブログで何度も繰り返し考えてきた点でもあります。

1) については、

思いがけない障害や病気に見舞われた人や家族は、
誰でも当初は天と地がひっくり返るほどの衝撃を受け、
その衝撃の中で絶望したり死を考えたりするものであるとしても、
多くの人は時を経て、その絶望から這い上がり、
新しい生活パターンと新しい価値観や
これまでとは違った生きる喜びや希望を
見いだしていく強さをも、また持っている。

また、その後も、おそらく私たち障害児の親がそうであるのと同じように
一度乗り越えたら、それで受容が完全に行われて終わりというものではなく、
本人や周囲の変化によって、受容とは、らせん状に繰り返されていくものであり、

だからこそ、ある時に「死にたい」という人の言葉には、常に
状況がほんのわずかに変わったり、らせんを、ほんの少し登ることさえできれば、
それが「生きていてよかった」に転じていく可能性が伴っているのだということを、
決して忘れてはならない……と思う。

2) については、

「無益な治療」論や“Ashley療法”での議論でもつくづく感じるのは、
医師は「障害について」知識は持っていても「障害を」知ってはいないのだ、ということ。

障害があるというのがどういうことか、
障害と共に暮らすというのがどういうことかについては、何も分かっていない。

だからAshleyを見て、単純に「赤ちゃんと同じで、どうせ何も分からない」と思いこむ。
それは医学的なアセスメントでもエビデンスでもなく、ただの個人的な偏見でしかないにもかかわらず。

「分かっていると証明できない」ことは「分からないと証明された」ことと断じて同じではないのに、
「分かっていると証明できないから分かっていない」と、平気で非科学的な論理を振りかざして
自分たちの偏見を正当化し、「治療の無益」論を「患者の無益」論へと巧妙にすり替えて、
QOLや知能の低い患者には人権など認めなくてもいい、死なせてもいいのだと主張する。

人間を能力と機能の総和としか捉えられない偏狭さに他の分野からの批判が出ても、
謙虚に耳を傾けたり、自らの無知や偏見を謙虚に振り返ってみる姿勢を欠いている。

”Ashley療法”を正当化するDiekema医師やFost医師の傲慢はまさにそういうものだし、
彼らが無益な治療論や、重症障害児の栄養と水分の停止にも積極的である事実にも
その傲慢が通じている。

生命や能力の操作が可能となったことによって
能力があること、能力が高いことに対する価値意識だけが突出してきて、
逆に、能力が低いこと、機能を失っていることは「悲惨」や「生きるに値しない生」と無価値とされて
それが尊厳や人権の否定、命の切り捨てに繋がっていこうとしている。

Ashley論争の当時は、それでもまだコストまでが言われることはなかったけれど、
その後3年間で社会の空気はさらに冷え込み、

”科学とテクノの簡単解決文化”と”医療と介護のコスト削減”とは
ほとんど直線的に繋がってしまった観がある。

この繋がりからは今後も様々に形を変えた”Ashley療法”すなわち
本来は社会で解決すべき問題に対するtechnical fix(科学とテクノによる簡単解決)が
いろいろと出現してくるのだろうし、

そこに「死の自己決定権」が寄り添ってくると、
「社会的または医療的に無益な患者が自己決定として選択させられる死」というものが立ち現れてくる。

つまり、McGaughey氏の言う「"お荷物”とみなされる人に期待されるPAS」――。



コネチカット州自殺幇助議論関連エントリー
Connecticut州議会、自殺幇助法案を棚上げ(2009/3/18)
2010年3月9日の補遺(医師2人とC&Cによる訴訟の公判開始)