Cameron党首、自殺幇助合法化に反対を表明

ちょっと記事そのものは当たれていないのですが(この後、出てきたらリンクします)

選挙戦が始まった(と思う)英国で保守党のCameron党首が
自殺幇助の合法化には抵抗すると表明したとのこと。

以下は、それを歓迎するジャーナリストのコラム。
Oregon州メディケアの「抗がん剤はダメだけど自殺幇助なら給付」の事例が紹介され
水門が切られたら「死は義務になる」と。

労働党のBrown首相はかねて合法化に反対しているので、
まずは、よいニュースとして、とり急ぎ。



この記事の中には、ちょっと面白い指摘もあって、

なぜ自殺幇助合法化の闘士たちには女性が多いのだろう?
また、なぜ彼女たちのパートナーはそういう話にニコニコしているのだろう?」

私は、うっかり、これを読むまで、このことに気づいていなかったので、
ハッとさせられて、確かにそうだ……と思いました。

で、ちょうど数日前に川口有美子氏の「逝かない身体」で読んだ
数行が思い出されました。

ALSの患者さんたちが呼吸器をつける選択には
公的介護保障や、地域の医療体制や、家族の介護体制や、いざ選択が訪れた時の状況や、
さまざまな要因があって、それぞれの選択は非常に複雑で難しいという話が
何度も語られる、この本の、ごく終わり近くで、

医療も介護も十分に受けられない地域で、
昼間はだれも見守る人がいない家庭環境にある40代女性の
「呼吸器はつけない」という選択が語られる。

その人のことを書いた部分に、
著者が出会った多くの女性も、この人と同じようだった、と語られるくだりがある。

家事一切ができなくなり、かえって家族に迷惑をかけてしまうのなら、死んだ方がましだという母親の覚悟もわからないでもない。だが母親の存在理由はそんなもんじゃないと一方では思う。患者も家族も、慣れれば別の生き方も見えてくるはずだと。

自分の介護を、家族、特にわが娘にさせたくないという女性患者が多いのは、介護は娘の、特に所得のない未婚の娘の仕事であるとされてしまうことが多いからだ。社会が、というよりもむしろ狭い家族という親密な間柄で、無償の仕事は自動的にもっとも弱い立場の女性に分担されてしまう。
(p.228)

そして、
……個人の意思決定の前に、同じ国のなかでも、生きられる場所とそうでない場所、生きやすい性と生きがたい性があった。このことに私たちはもっと敏感になるべきではないだろうか。
(P.230)


そういえば、柳澤桂子氏も多田富雄氏との対談の中で
妻の方が介護を受ける身になった苦痛を切々と訴えていた。
その訴えの悲痛さもだけど、それが多田氏にはまったく伝わっていかないで
誰にも受け止められなかった柳澤氏の辛さの訴えが宙ぶらりんになったまま、
妻の介護を当たり前として受けている多田氏によって話がさっさと進められていくのが
読んでいて、とても切なかった。

臓器移植の問題でもドナーには女性が多いことが指摘されている。
「親からの臓器提供は当たり前」という論文でも、
親はいつの間にか she で受けられていた。