カトリック系の病院が「ターミナルでなければ栄養と水分停止は自殺幇助」

オクラホマ州 Tulsa のカトリック系の病院が
患者の終末期医療に関する意思は尊重する一方、
栄養と水分を引き上げることによって死なせることは拒否する、との方針を打ち出した。

もともと去年11月に米国カトリック司教会議が倫理綱領の第5版を発表した際に、
特に栄養と水分に関して患者の事前指示が尊重されないのでは、と
全米で論争を巻き起こしていたとのこと。

しかし、記事をよく読んでみると、
どうも病院側が主張しているのは以下の内容のようなのです。

「元々の病気でターミナルな状態になった人が
栄養と水分を拒みたいという本人の意思がある場合には尊重するし、
死に直面していて、そういうケアが本人のためにならないような人にまで
無理やり栄養や水分を供給するとは言わない。

けれども、
死が差し迫っているのではない人が、
事前指示書によって栄養と水分を拒んでいるとしたら、
それは自殺幇助を禁じたオクラホマ州法に違反する行為であり、
カトリックの教義にも反する。

カトリックの病院としては、
そういう人を餓死させたり脱水死させたりすることはできない。

どうしても、ターミナルでない人が栄養と水分を拒みたいと言うなら
他の病院に転院してもらう手続きをとる」

それに対して、「死の自己決定権」ロビーのC&Cから出ている批判は、

「延命治療中止の決定権を患者に与えた法律を尊重していない。
患者には宗教に関わらず、事前指示書や家族の指示を尊重してもらう権利がある。
だいたい、たいていのアメリカ人は植物状態になった時に
人工的に栄養と水分を供給してほしいなんて思っていない」

つまり、論点はきっと、
植物状態の人やShiavoさんのような重症障害者を
脱水死や餓死させるようなことはしない、という病院に対して、

本人さえ望んでいれば、宗教を問わず、それは尊重されるべきだろう、という批判。

(しかし、その一方でC&Cが「家族の指示」を持ち出していることに注目。
それに「たいていのアメリカ人は」というのも「自己決定」に反する)

Starvation not allowed
Tulsa World, April 4, 2010


栄養と水分の提供は延命治療なのか基本的ケアなのかという議論は
Shiavo事件の後、Ashley事件の頃にはまだあちこちで見たような気もするのだけど、
この頃はあまり目にしなくなってしまった。

「無益な治療」論に押しのけられてしまったような感じがする。

そんな流れの中で、
「ターミナルでない人への水分と栄養の停止は自殺幇助とどこが違うのか」という
問題提起が出てきたことは、考えてみるべき意義があると思うのだけど。

           ――――――

最近、非常に強く感じていることの1つに、
あまりにも世の中の価値意識の変化が速いために、うかうかしていると、

同じ用語が使われているのに、
その意味には、くるっと一回余分なひねりが与えられて
中身がまるで反対の方向を意図するものにすり替わってしまっていたりする、ということ。

例えば、つい2日前に触れたばかりの「介護者支援」。

介護者だって生身の人間なのだから、がんばってもできないことはできない、
介護者が心身ともに健康でいて初めて良い介護ができる、
介護者自身の生活や人生だって大事にする権利もある、
それをサポートするのは社会の役割である、という視点と、

実際にそのための給付やサービスや
介護者のニーズのアセスメント制度を作っている国もある。

私は、そういう「介護者支援」を調べて自分に可能な範囲で紹介してきたつもりだし、
ここ数年、介護の現場で専門家が使い始めた「介護者支援」という言葉も、
そちらの意味だと思うのだけれど、

つい先日、ある工学者の方が
介護負担の軽減のための技術を開発していくことを「介護者支援」と表現されたことに
横っ面をすっぱたかれる思いがした。

そして、これまでの日本には
本来の意味での「介護者支援」が欠けていたことの反省すらないまま、
これから日本での「介護者支援」は「介護負担軽減のための技術開発」を意味することに
なっていくのだろうな……と、うそ寒い思いで予感した。

また、その予感には、
「介護者支援」という名の支援技術の提供は
介護負担の軽減と引き換えに、再び家族の中へと介護を押し戻していくものになるのでは……と
“Ashley療法”の論理と同じ矛盾への懸念が含まれてもいる。

去年は、ある介護関係のシンポで
介護分野では知らない人がないくらいに素晴らしい看取りの地域支援を実践してこられた方が
「高齢者は口から食べられなくなったら死」と言われた時に、

この人が訴えたのは、
「口から食べられる間は食べ続けられるために精一杯の個別ケアを尽くしつつ、
病院ではなく地域で支え続けて、それでも口から食べられなくなったら、
そのまま地域で看取れるように、それだけの介護体制を地域に作りましょう」

つまり医療と介護の在り方を変えていこうとの提案だった。

だけど、私が懸念した通り、
そのエントリーにコメントしてきた人の大半には
その人の言っていた「口から食べられなくなったら死」の真意は伝わっていなかった。

特に、その人がメッセージを投げかけていた医療分野の人に
最も伝わっていなかった。

その時、
これからの日本では今のままの病院での高齢者ケアと病院死を前提に
「口から食べられなくなった人には無駄な医療費を使わずに死んでもらおう」
という意味で、それが言われ始めるのだろうな……と、うそ寒い思いで予感した。

英語圏の議論を見ていると、
「終末期の緩和ケア」という言葉だって、
ある人は「きめ細やかな観察と共感、そしてアグレッシブな症状管理」の意味で使い、
ある人は「医療を行わないという選択」の意味で使う。

尊厳死」だって「死の自己決定権」だって、
それを言っている人の立場によっては、同じ言葉が全く違う内容で使われている。

うかうかしていると、日本でも
尊厳死」や「緩和ケア」の意味する中身が
いつのまにか微妙に変わっていた……なんてこともあるかもしれない。