「洗車機とUFキャッチャーでオムツ交換ロボットできる」と言う工学者の無知

【9日追記】
afcpさんとのやりとりで、どうも誤解を招きそうだということに気付いたので、
あらかじめ追加説明しておきます。

この工学者さんは今現在ロボットを作っている方ではありません。ご専門も、ちょっと違いそうです。
現在、研究しておられるのは高齢者を集めて話をさせて知的機能を維持するという試みとか。
ここで取り上げた「洗車機とUFキャッチャーでおむつ交換ロボットはできる」というのは
この日のお昼休みの雑談の中で、思いつかれたことだそうです。

(以下、当初エントリーのまま)

しばらく前に某所で聞いて、頭をぶんなぐられたほどの衝撃を受け、
私はいまだにその衝撃から立ち直ることができていない
著名国立大学・工学部の准教授の発言。

おむつの着脱というのは、要は折り紙を畳んだり開いたりするのと同じ動作なのだから
洗車機とUFキャッチャーみたいな装置で作ろうと思えば作れる」

「折り紙を畳んだり開いたり」のところで、この人は、
広げた風呂敷の左右の端っこをつまんで真中に寄せるような動作、
次いで、手前の端を両手でつまんで真中まで持ちあげ、また元に戻すような動作をされました。

それが個人的なヨタ話や世間話の中の発言ならば、
別に目くじらを立てるほどのことでもなくて、
「工学者の中にはアホな人もいるのね」と笑って済むのかもしれませんが、

それは工学者が集まって、介護現場での技術支援を議論するシンポでした。

1日の議論の中で発表者が人権という言葉を使ったのは1度だけ。
「人権を侵害しない範囲でIT技術を」。

その範囲がどこまでであるかを考えるつもりなど
全くなさそうな文脈と口調で。

そんな議論を、
「工学者の人たちというのは、介護現場で多くの人たちが積み重ねてきた議論についても
障害当事者たちがこれまで言ってきたことやリハ医療の世界で研究されてきたこと、
医療倫理の世界で議論されてきたことについても、こんなにも無知で無関心なものなのか……

そして、その無知に対して、こんなにも無自覚なまま、平気でこんな議論をしているのか……」と
初めて知って唖然とし、ずっと、その衝撃を受け止めかねつつ聞いていたので、

シンポも終盤に差し掛かったところで
「洗車機とUFキャッチャーでおむつ交換ロボットは作れる」と平然と言える人の無知と、
さらに、その発言を疑問に思うこともなく肯定的に受け止めてしまえる他の人たちの意識のあり方とは
ただ、ひたすらに「あり得ない……」としか思えず、どうにも我慢がならなかったので、
会がはねた後で、その人のところへ行きました。

「私は重症障害児の母親なのですが、
人間の体はモノと違って、そう簡単に思うようにはなってくれないというか、
例えば、寝たきりの人の身体はねじれてきたり、ねじれたまま固まったり
また、ちょっと不用意な力が加わると簡単に骨折したりもするんですけど、
そういうことは、ご存知ですか」

娘の脚の捻じれ方を実演しながら、そう聞いてみると、

「じゃぁ、逆にこっちが聞きたいですけど、
そんなに脚がねじれているのに、どうしてオムツが替えられるんですか」
(替えられるわけがないだろう、という口調で)

まったく予想外のリアクションに絶句して、
瞬間、「それは人間がすることだからだよッ」と怒鳴りつけたい衝動に駆られたのだけど
懸命な努力により、なんとか抑えて、

「そこが介護する人の経験とか技術とかいうもので、
それに介護には阿吽の呼吸というものもあって……」
混乱する頭でなんとか説明を試み始めると、すぐに遮られた。

「それで、脚の角度は何度なんですか?」

「……はぁ?」

「脚の曲がりの角度です。角度さえ分かればテクノロジーで対応は可能です」

「あの、もしかして、寝たきりの人の身体がどういうものか
ご覧になったことがない……とか……?」

「いずれ見に行かなければ、とは思っています」

「……いや、でも……あの、私としては、そういうことすらご存じない方が
こういう場でこういう議論をされている状況そのものが怖い、というか……」

もう何を言っているのか、自分でも、ほとんどワケが分からなくなりながら、
その後もちょっとやり取りした中で、再び強烈に顔面をすっぱたかれた気がしたのは、

「私は介護者支援をやりたいんです」

「え……かっ……かいごしゃ…しえん???……ぐ……ぬぅ」

もう、それ以上にものを言う気分も失せて、とっとと退散した。


介護者にも自分自身の生活と人生を送る権利がある、
介護者も自分自身の人生や生活を送れるように、
レスパイト、介護者手当てや、介護のためのタクシー代の給付、
介護者ニーズのアセスメントやフレックス勤務制度の法制化や、
その他、欧米で様々に整備されてきた介護者支援は、

日本には、長いこと、その視点すらなかった。
やっと、介護者にも支援が必要だと介護現場で言われるようになってきたものの
現実の介護者支援のサービスも制度もまだないに等しい。

娘との体験の中から
そういう視点と制度整備が必要だと痛感したからこそ、
私は「介護者支援」という言葉で、そういう視点の転換とサービスの必要について書いてきた。

それは、このブログでも何度も書いてきた通り。
(詳細は文末にリンク)

「介護者支援」とは、
決して、その日、人権など誰も意識しないまま無邪気に議論されていた
徘徊防止や見守りのための「遠隔監視システム」や
トイレにカメラを持ち込んで動作を読みとり指導する「遠隔介入システム」や
ウツ病認知症の人の表情からその人の感情を読みとる「表情認識システム」や
「洗車機とUFキャッチャーで作るオムツ交換ロボット」のことじゃない。

だけど、それを、この人に向かって語ろうとすることは不可能だった。

少なくとも私は、この、
寝たきりの人間を見たことすらなくとも、著名大学の工学者である自分には
おむつ交換ロボットは作れると公言する資格があると信じて疑うことのない人との
言葉の絶望的な通じなさを前に、悶絶してしまった。

その悶絶から、まだ立ち直れていないので、
なぜ、いかに、それらは「介護者支援」ではないかという理屈は
ここでも、まだ垂れることができないでいるのだけれど、

あの日、私が、帰りの新幹線で身動きもできず一点を凝視し続けたほどの衝撃を受けたのは、
あの場で、あんなにも無知なまま、またその無知に対して、あんなにも無自覚なまま、
無邪気に議論していた人たちの「善意」が

「世の中の重症児の親を助けてあげたい」と考えて
”Ashley療法”を世界中に広げていこうとするAshley父の「善意」と、
まったく同じタチのものだと感じたからだ。

そして、これは非公式な発言だったけれど、別の工学者の方が言われた
「障害者と認知症患者とでは話が別だからね」という言葉も、

「障害者運動ができるような障害者とAshleyとは話が別だ」と”Ashley療法”を正当化し
「一定の知的レベルに達しない人には尊厳や人権を認める必要はない」とする
Diekema医師やAshley父と、まったく同じ論理だったからだ。


なぜ、医療は障害者について、こんなにも無知なのか――。
なぜ、そのことに、こんなにも無自覚なのか――。

重症児の親としても、Ashley事件を追いかける中でも、
ずっと、その疑問を感じてきたことを、昨日、
障害者の権利に対する医療と倫理委の無理解を考えるカンファについてのエントリーで書きました。

それでも、もしかしたら、医療はまだマシだったのかもしれない……。

この「洗車機とUFキャッチャーで」発言を聞いた日、
娘が生まれてからの23年間で初めて、そんな言葉が私の頭に浮かんだのでした。


【7日追記】
今日、児童精神科医のafcpさんからいただいたコメントに
「育児ロボット」が登場したので、思い出して、こちらも関連エントリーとして以下に追加。