Terri Shiavoさんの命日に寄せて

5年前の今日、2005年3月31日に、Theresa Marie Schindler Schiavoは死んだ。

5年を経た今、多くの人がなお、アメリカはなぜ
あんなことを許してしまったのか、理解しようとして、できないでいる。

障害があり、夫と安楽死セクトが満足するほどQOLが高くないという理由で
Terri Shiavoの命がターミネイトされた2005年3月31日、
アメリカはまた新たな低みへと沈んだ。

ある障害者団体の指導者が言ったことがある。
極右は医療や公的住居、移動支援など必要な支援をカットすることによって
「ゆっくりと苦しめながら」障害者を殺そうとしている、
極左は「さっさと殺して、それを思いやりと呼び、
おそらくは、もっと価値があるとみなされる人たちのために
金を浮かせようとしている」と。

記事はその後、
5年後の現在、障害者への差別はより悪化していることを憂慮し、
Obama大統領による医療制度改革は高齢者や障害者の切り捨て施策だと痛烈に批判。

さらに同大統領が
下院議会によるShiavoケースへの介入に同意したことについて
家族の問題に政府が関与すべきではなかったと自己批判したことに対して、
(詳細は文末のリンクに)

Shiavo事件では最初からメディアが加担して同様の世論誘導が図られてきたし、
未だに多くの人がShiavo事件の事実関係を捻じ曲げ続けて
あの事件の正当化を図っている、と追及。

この事件の事実関係の誤解については
私も何度、確認してもしすぎることはないと考えているので、以下に。

Terriはターミナルな状態でもなければ、昏睡状態でもなかった。
呼吸器をつけていたわけでも、それ以外の機械に繋がれていたわけでもない。
彼女が生きるのに必要なのは、栄養と水分だけだった。それなのに、
12年間の間、セラピーとリハビリテーションの一切を不当にも拒否され続けたのだ。

The More Things Change……
North Country Gazette, March 31, 2010


「裁判所による殺人」とか「公開処刑」、wrongful deathなど
非常に激しい表現が使われている点には、ちょっと抵抗感も覚えつつ、

シャイボ事件は実際にはTerriさん自身の望みや家族による代理決定の問題ではなく、
実は社会保障や医療費の問題だったのだという指摘、

シャイボ事件で米国社会は障害者や高齢者にかけるコストを拒み、
切り捨てる方向にかじを切ったのだという分析、

この5年間の安楽死論争で
compassion (共感・おもいやり)がdirty word にされてしまった
などの指摘には、うなずけるものも。

そして、この文章から何よりも強く響いてくるのは、
これから、ますます障害者に向けて強まるであろう死への圧力への懸念と、
そのことへの強い危機感。

それは、日本でも、現在ひしひしと感じられる危機感でもある。