流れが決まったら学者さんは口をつぐむ……ものだとしたら?

Ashley事件を追いかける過程で、
いろんな人の反応を見て感じてはいたことだけど、

最初に、この疑問をはっきり意識したのは、去年1月に
日本で「クローン肉の安全宣言」が出された時のことだったと思う。


どう考えても、
長期に食べ続けても安全だという科学的エビデンスが示されているとは思えなかったし、
ネットでいろいろ検索してみても、科学者の方々の間でも
懐疑的な見方をする人が多いように思えた。

それなのに、なぜかテレビや新聞などの、いわゆる“表”に出てくる科学者には、
ネットで「あぶない」と書いている人たちのような歯切れの良さがない。

科学者が出てくると、そのコメントはたいていの場合、言外に
「安全性には疑問を感じますけど、でも、なにを言ったって、
やる方向で既に決まりみたいだから、それなら……」と前置くようなニュアンスで
「少なくとも消費者が選べるように情報提供だけはしっかりしてほしい」と
せめてもの注文を出す……という路線のものが多かった。

私たち素人には、本当に安全なのかどうかという判断はできないのだから、
その判断ができる科学者の中に「あぶない」と感じている人たちがいるのなら
表に出てきて「あぶないと思う」と、はっきり言ってくれればいいのに、

少なくとも、すべての科学者が「安全だ」と考えているわけではない
という事実が明らかになるだけでも、一般国民にとっては
1つの重要な判断材料になるはずなのに……と思ったし、

安全宣言を出した内閣府食品安全委員会の専門家ワーキンググループの座長が
実はクローン推進の旗振り役の近畿大薬学総合研究所長だという妙な事実を
関係分野の方々が知らないわけはないとも思ったのだけれど、
なぜか、そのことを指摘してくれる科学者もいなかった。

それは、その妙な事実を知っているにも関わらず指摘しないのではなくて、
もしかしたら知っているからこそ指摘しないのかもしれない……と
考えがそこに至ったのは、ずいぶん後になってからだったけれど。

次に、同じ疑問を感じたのは、
去年の夏の脳死臓器移植法改正議論の時。

最近の ワクチンを巡る専門家の発言でも、
「テクノロジーを介護に」という動きでも、どこか同じ気配が漂っているような……。

国際競争とか市場原理とか、経済対策としての産業創出とかマーケット形成とか
本当はそういう力学によって作られている方向性だという面があって
そのことは、関連業界の人たちには、とっくに共通認識になっていて、
そして、そこに一定のリスクや問題があると感じている専門家や学者さんだって
本当はいないわけじゃない……んではないだろうか。

どの問題にせよ、
たぶん、我々一般国民が広く見せられているヴァージョンとは違う物事の様相を
関係分野の専門家や学者さんたちは見ているし知っている。

知っているけど、もうその方向に流れが決まっていることも同時に知っているから
言っても無駄なことは言っても仕方がないと口をつぐんでいる……なんてことはないのだろうか?

そういう話は科学とテクノの分野の専売特許かと思っていたら
東南アジアからの看護師・介護士の受け入れについての議論でも同じらしい……と
つい最近になって気がついた。

「これは経済協定で、介護士の人手不足を補うものではない」とタテマエが繰り返されつつ、
その一方では「受け入れておきながら、それなりの待遇で報いないのはどうか」との
批判の声にじわじわと押される形で少しずつ制度を緩和して
結局は定着させていく方向に動いていこうとしている。

東南アジアの国々が家事・育児・介護労働力を先進国に輸出しているのは
グローバル化した弱肉強食ネオリベ世界を生き延びるためには、
それ以外にないところに追い詰められているからであり、
輸出された人たちの欧米諸国での扱いが事実上の奴隷労働と化していることについては、
誰もが知っているはずなのに、正面から議論されることは滅多になく、
その事実は誰もが知っていながら、ないこと、知らないことにされたまま
「彼女たちはスキルアップのために日本に来る」とか
「自国の介護の素晴らしさを日本の人たちに見せるために来る」と言われ、
介護現場で働いている候補者たちが如何に素晴らしいかばかりが強調される。

(もちろん、それが全くの嘘だと言うつもりは私もないけれど
問題は、そういうことじゃないはずだろう、と思う)

先日、某所で、ある学者さんが
候補者の人たちが資格を取りやすいように
国家試験そのものを易しく変えるべきだと主張するのを聞いて、たまげた。

「だいたい看護師の国家試験に出てくる日本語は、あれは一体、日本語なんですか。
あんな難しい日本語は、私たち普通の日本人でも使わない。
褥瘡って日本語、みなさん、知っていますか? 私は知りませんでした。
褥瘡なんて、何故ふつうに“おでき”ではいけないのか。
国家試験の日本語を、我々日本人が普段使っている易しい日本語に変えていく必要がある」

そのためには、現場で看護師とコミュニケーションが齟齬をきたさないよう、
医師の国家試験の日本語からも専門用語を排除して、
我々一般人が使っている普通の平易な日本語に置き換えていく必要が出てきますね。

「褥瘡」とは「おでき」のことだと本当に信じているような人は
看護師の国家試験を軽々しく云々すべきではないだろう、と思う。

もしも本当は同じでないことを知っているのだけれど知らないフリで言っているのだとしたら、
これは、いくらなんでも恥知らずな提灯の振りまわし方ではないのか? と思う。  

学者という人たちは、
この動きは、もはや止めがたいものになったらしい……と読んだら、
真実を語る口をつぐむものなのか?

ただ、口をつぐむだけでなく、
学者としての良心をかなぐり捨ててでも、その動きに自ら乗っていくものなのか?

もしかして、その動きに乗らなければ、学者としてメジャーになれないとか――?

それは、もともと学問の世界がそういうものだったのか、
それとも昨今の世の中が学問の世界もそういうところにしてしまったということなのか、
一体どっちなんだろう?

しかし、メディアを通じて、我々一般国民のところに届くのは、
概してメジャーになった学者さんの発言ばかりなので、
それでは我々一般国民は真実を知るすべがないことになってしまうのだけど?

――あ、そうか、もしかしたら、
メジャーな学者さんのいうことは提灯である可能性が大きいと
あらかじめ心得ておいた上で、ちょっと距離を置いて聞くことにする……というのも
今の時代に必要な情報リテラシーなのか……。

Ashley事件での学者さんたちの立ち廻り方を見て
私はつくづく感じてきたのだけれど、

そういう学者さんだらけになっていく世界で
一番語られなければならないのに誰にも語られなくなっていくのは、
たぶん、人権……なのだ、ということも

もしかしたら国を問わず、
情報リテラシーの基本として、
念頭に置いておく方がいい時代なのかもしれない。

【追記】
誤解を招きそうなので、書き足しておくと、
流れが決まってしまった中で、「それでも、やっぱり」とか「せめて」との思いで
その流れに抗うために、またはせめてものセーフガードを確保するために
熱く研究や発言を続けてくださっている学者の方々がおられることは、
Ashley事件であれ、その他の問題であれ、私も直接体験として知っているので、
「学者という人たち」と一くくりにするべきではないことは重々分かってはいるのですが、

ここでは、とりあえず、それ以外の表現を思いつけなかったので、
悪しきアカデミズムと、それを象徴するような学者の方々のことだと
了解・ご寛容いただきますよう、よろしくお願いいたします。