「Isaiahくん事件は“患者の無益”論」と安楽死防止連合のSchadernberg

重症の仮死状態で生まれたカナダのIsaiah君の無益な治療訴訟については
以下のエントリーで追いかけてきました。



Wesley Smithと一緒に安楽死合法化の動きに真っ向から反対運動を繰り広げている
Euthanasia Prevention CoalitionのAlex Schadernberg氏がこの事件を取り上げ、
May夫妻と直接のコンタクトをとって支援していることを明かしています。

まず、最初に送ったサポートの手紙では、
もしも、ここでIsaiah君から呼吸器が取り外されて、
その結果、彼が死んだとしたら、それは安楽死ではなく自然死だと
書いたとのこと。

それで、どうしてMay夫妻の訴えを支持するのかというと、
おおむね彼の書いていることは以下の通り。

ここ10年程の間に医療現場に生命倫理が導入してきた「無益な治療」論は
当初の「効果がなく患者に苦痛を強いる」という治療の無益から
「無益とみなされた患者からの効果的な治療の引き上げ」の正当化へと
変質してきている。

呼吸器は効果的に酸素を供給して、患者は成長を続けているのだから、
Isaiah君の人工呼吸器それ自体は無益ではない。
病院や医師が取り外しを望んでいるのは、
呼吸器をという資源が無益な患者に
無駄遣いされていると考えるからである。

もしもMay夫妻がこの訴訟で敗れたら、いったいどういうことになるか。
次は認知症の患者、重症障害者、さらに対象は広がっていくだろう。

こんな前例ができてしまったら、
カナダで安楽死が合法化された暁には、
一体どのように利用されることか。

Baby Isaiah Case – Euthanasia or not?
Euthanasia Prevention Coalition, February 2, 2010


無益な治療論が当初の「治療の無益」から「患者の無益」への変質してきていることは
当ブログでも何度も指摘している通りだし、
ここで書かれていることには大筋もちろん同意なのですが、

私として、最近とても引っかかっているのは、
例えば、Schaderberg氏が書いている以下のような箇所。

母親のRebecca Mayさんと話したところ、
Isaiah君を家に連れて帰ってケアしたいという希望をはっきり語った。
Isaiah君があまり長くは生きないだろうことも、生きたとしても
重い障害を負うだろうことも彼女は理解している。しかし
それでもなお、どういうことになろうと彼をケアし、愛したいと
彼女は望んでいるのだ。

May一家を支えなければならない。2人が望んでいるのは家に連れて帰って
愛しケアしてやることができるところまで回復してくれるかどうか
確かめるために呼吸器を装着したまま90日間の猶予がほしいということだけだ。
その、どこがいけないというのだろう。

安楽死や「無益な治療」論に対して抵抗運動を続けている活動家ですら、
「何が起きようと、家族がケアを引き受けると言っているんだから」という。

カナダでは、支援する側でさえもが無意識のうちに
「何があっても家族がケアを引き受ける決意」を
“無益な治療”停止に抗うための妥当な交換条件として是認している。

これでは、支援する側も病院と一緒になって
「救命してほしければ、それによって社会的コストが発生しないように
後のことは何があっても家庭で引き受けることが引き換え条件」と言っているようなもの。

「障害のある子どもの命を助けてほしければ、それも家族の自己選択。
あとはすべて家族が自己責任でやるんだろうな」。

うかつにも「無益な治療」論への抵抗の論理までもが
そんな恫喝を内在させてしまっているのでは?

もしも、この先もそんな論理で「無益な治療」論に抵抗していくならば
命の選択を盾にとって介護負担を家族に背負わせていくことになるのでは?

その先にあるのは、医療サービスも介護支援も奪われていく社会――。