「Gilderdale事件はダブル・スタンダードの1例」とME患者

Gilderdale事件の実質無罪放免について報道が続いています。

インターネットに流れてくる情報を拾っていると、英国社会は
「美しい母の慈悲殺愛!」「自殺幇助合法化を!」という声で沸き返り、
まるで「よくぞ殺した!」とKay Gilderdaleを称賛するかのようです。

そんな中で、ME患者のAnn Farmerさんという方の目立たない投稿に
私は却って目を引かれました。

8年間 ME(慢性疲労症候群)を患ってきた者として、故Lynn Gilderdaleさんが自殺したいと感じていたのは分かります。あれほどの重症だったことを思えば、なおさらです。MEという病気は理解されていません。研究も患者団体が資金を出しているものしか行われていません。MEでは体力が低下し、疲労感に襲われます。それでも患者は支援を求めて闘うことを余儀なくされているのです。この国だけでも何千人もの患者がいるというのに、そんな病気があることそのものを疑う人もいます。

障害のある人が死ぬのを身内が手伝って刑罰を受けなかったという、この事件は、我々の社会のダブル・スタンダードの、さらなる1例です。つまり、患者自身の苦痛よりも、病人のケアをしている人のほうに同情が集まる。

もしも身障のない人が死にたいと言って、身内がその人を殺したという犯罪だったとしたら、それは間違いなく殺人となったはずです。自分で身を守るすべを持たない弱者をケアしている人たちに向かって、この事件は誤ったメッセージを送ります。「介護者が助けてほしいといっても、その願いは無視されますよ、でもね、もしも、どうにもできなくなって自殺を手伝うのだったら、同情をもって迎えてあげますよ」とね。



この人が指摘しているのは、実際には3つのダブル・スタンダードだと思う。

① 患者の苦しみには理解がないのに、
殺す介護者の苦しみにだけは理解を示すダブル・スタンダード

② 同じように自殺希望があったとしても、
障害のない人を殺したら「許すべからざる殺人」で、
障害がある人を殺すのは「美しい愛の行為」というダブル・スタンダード

③ 介護している間の介護者の苦難には温かい手を差し伸べることをしないのに
思い余って殺してしまったとたんに温かく同情を寄せるダブル・スタンダード


私も障害児・者と介護者を巡る社会のダブル・スタンダードには
ずっと疑問を感じ続けています。

一昨年、福岡で発達障害のある子どもをお母さんが殺した事件の時に
やはり「ダブル・スタンダード」という言葉を使ってエントリーにしたことがありました。





          ―――――――

上記リンクで書いたように、
障害児・者や介護の問題を語る時に美意識を持ち込むのはやめてほしい……と
私はずううううううっと思ってきたのですが、

Ashley事件からこちら、英語圏の動きを追いかけていると、
「愛と献身」がやたらと大安売りされて、

そういう、本来は見当違いなはずの美意識を煙幕に、
再び家庭・家族に介護が押し籠められていっているような気がする。

ただし、今度は、
そのために、ホルモンで背を縮めたり、チップを埋め込んだり
介護される人の体を都合よく変えるのも勝手だし、
ありとあらゆるセンサーを使って、バイタルから
冷蔵庫のドアの開閉に至る行動の逐一まで、遠くにいる家族が把握するのも自由だし、
モニターを使って、離れた所でもヴァーチャルで食事を共にすることもできる。

あ、もちろん、ロボット介護も、いずれはお好みのままで、
ご本人様を“ロボット自動介護ベッド”に寝かせてもらったら、
後は放っておいてもらって全然OK。

定時の体位交換も、排せつも、胃ろう管理も、投薬も、
設定さえしてもらえれば、リハビリだって、ちゃんとやっちゃう優れもので、
誰もがハッピーな"快適老老介護”を実現します

――そんな、“科学とテクノ”でバージョン・アップされた“家族介護”。

なんてったって家族は「愛と献身」の代名詞だし。やっぱ「家族愛」っしょ。
「愛憎」とか「近親憎悪」なんて言葉は、この際、無視しておいてね。
それが「本人の最善の利益」なんだから。

本当は、お金のある人しか、この“新バージョン・家族介護”には手が届かないのだけど、
それも、まぁ、あまり大きな声では言わないように。

あ、もちろん、「尊厳を無視した介護はイヤだ」と時代遅れなことを言われる
頑固で意固地な偏屈はいつの時代にもおられますから、そういう方は
どうぞ、勝手に、ご家族が徒手空拳でご奮闘ください。ただし、
選んだのはアンタたち家族なんだから公的支援はありませんよ。

で、 “科学とテクノ”を駆使できるほどお金がなかったり、
そういうのを駆使しても家族だけでは介護できない状況だったり、
まぁ、その他もろもろの事情で「もう、イヤだ」ということなら、

そうね――。
ご本人様に「死の自己決定権」を行使していただくか、

もしくは、これも、あまり大きな声では言えませんが、
適当なところで殺していただけば、一応、無罪放免ということで……。

だって、心に「愛と献身」と「慈悲」をもってやる「美しい行為」なんですもの――。


私たちが向かっていこうとしているのは
結局は、そういう世の中なの――?