Gilderdale事件から、自殺幇助議論の落とし穴について

以下の2つのエントリーでフォローしてきた事件。


続報が以下に。

オーバードースモルヒネを娘に与えた後で
母親がインターネットで安楽死について検索していたことや、
その前後に、別れた夫にメールを出していたことなどが記事の中心。

あまり目新しい内容はないのですが、
Lynnさんが1日分の処方量の3倍のモルヒネで死にたいと望んだという記述からすると、
本人に処方されていたものなのかもしれません。

それからLynnさんは以前にも
自分の体は「もう壊れてしまった」と感じて自殺を図ったことがあった、とのこと。

また、母親の行為と、Lynnさんの死との因果関係が証明できないため、
殺人罪ではなく、殺人未遂(attempted murder 企図?)罪での訴追。



19日のエントリーでも書きましたが、この事件、私には疑問だらけで。

・なぜ慢性疲労症候群の患者にモルヒネが処方されているのか。
・処方されていたとしても家に致死量が置かれているということがあり得るか。
・母親が看護師の立場を利用して手に入れたということは?
・それなら別の罪にも問われるべき?
・なぜ、ものがしゃべれて手が使えるLynnさんが経管栄養なのか?
・本来、経管栄養にならないはずの人が精神的な原因でそうなっているとしたら
 Lynnさんに必要なのは自殺幇助ではなく支援だったのでは?

などなど、19日から、いくつもの疑問がずっと引っかかっていたので、
知り合いの看護大学の教授の方(看護師)に、ご意見をうかがってみました。

私の疑問にほぼ同意されたのですが、さすがに医療職の方は鋭くて、
さらに私が気づかなかった鋭い洞察をされました。

そのポイントは

・ Lynnさんの発病が17年前だとすると、ちょうど思春期にあたる。

・ 身体障害があるわけでもないのに、ずっと経管栄養だとすると、
思春期の摂食障害がきっかけだった可能性もあるかもしれない。

・ もしも、そうだとすると、当初きちんとした対応ができていれば
今のような寝たきりで経管栄養という状態は避けることができたかもしれない。

・ その時に対応を誤り、その後も、ずっと然るべき対応がされてこなかった可能性も?

・ そういう状態の娘を“献身的に”17年間介護をしてきたとしたら、
母親の方にも、精神的な問題があるのでは?

・ その17年間の介護も、母親による一種の虐待だった可能性はないのか。

さすがです。唸りました。

ご意見を聞きながら、私の頭にも
代理ミュンヒハウゼン症候群とか「共依存」といった言葉がチラつきました。

もちろん、
それらをきちんと検証するだけの材料は我々の手元には十分ではないので、
この事件について断定的なことは何も言えませんが、

「今の状況」だけではなく「これまでの経緯」にも目を向けてみること、
人間のすることや関係性とは単純ではなく
「表面に見えること」だけではないと知っておくことなど、

この洞察は、自殺幇助、安楽死の問題を考えるにあたって、
我々がもっと深く考えなければならない多くのことを示唆してはいないでしょうか。

介護する者・される者の関係は
世間一般の人が思い描きたいように単純に美しい愛情関係だけではなく、
親子や夫婦や家族全体の経緯や恨みつらみや歴史を背負って、もっと、どろどろと複雑です。

こちらのエントリーでも指摘しているのですが、
要介護状態になった妻の介護を夫が担うと、
入れ込みすぎたり過剰に支配的になりがちで
介護される方もする方も両方が疲労困憊し、
抜き差しならないところに追い詰められてしまう問題が
最近、日本の介護関係者の間で話題になっています。

介護する人・される人の関係になんらかの問題が潜んでいたり、
介護者の方に心理的・精神的な問題があったりすれば、
傍目には「献身的な介護」と見えるものが
実際には相手をコントロールする手段に使われていたり、
心理的に相手を追い詰めていく虐待が隠ぺいされていたり……ということだって
全くあり得ないわけではないでしょう。

我々は安楽死や自殺幇助、「死の自己決定権」の議論において
今現在のその人の病状や障害の状態だけを見がちだし、
介護者は常に献身的に尽くしているものとの前提に無意識に立ちがちだし、
「もう死んでしまいたい」という言葉を「本人が死を望んだ」と額面通りに捉えがちですが、

人は、心の中でまるきり反対のことを望みつつ、何かを口走る……ということをします。
また、激しい葛藤があるからこそ心にもない言葉を吐いたりもします。
人の言葉が必ずしも、心にあるものを、その通りに語っているとは限りません。

14歳の時から31歳まで
慢性疲労症候群でベッドに寝たきりとなり、
身体的には口から食べられるはずなのに経管栄養で、
看護師である母親の「献身的な介護」を受け続けながら
自分の体は「壊れてしまった」と感じないでいられなかったLynnさんのケースは、

ただ「医療職の母親の手厚く献身的な介護にもかかわらず
病気への絶望感から自殺を望んだ娘と、それを手伝った母親」の事件として扱ってしまうのではなく、

Lynnさんの医療にかかわった専門家はどう見ていたのか
どういう社会支援を受けていたのか、
母親の精神状態はどうだったのか、など
おそらくは、もっと多角的に検証されるべきケースだし、

そこから、「死の自己決定権」議論の落とし穴に気付くための多くの示唆を
我々は読みとるべきなのではないでしょうか。

           ―――――

今日の記事には
母親が“devoted and caring mother”と表現されていると書かれています。
Timesがカッコつきでわざわざ「そう表現されている」と書くのは、
それなりの疑問の提示なのでしょうが、

Ashleyの両親も、Katie Thorpeの母親も、
くどいほど繰り返し devoted and caring , loving と書かれました。

介護している人は、みんな確かにdevoted and caring でしょう。
そうでなければ介護などできません。

しかし、いずれの事件でも、
メディアや擁護者がそれを敢えて称揚し繰り返すことによって、
「devoted and caring な介護者のすることなんだから、
許してあげればいいじゃないか」とか「そんな苦労を知らない者はすっこんでいろ」
「部外者が口を出す問題じゃない」などと、感情的な批判封じの空気が漂い、
明らかに世論が影響・誘導されました。

母性の名のもとに女性に介護負担を押し付けてきた母性神話が
今度は慈悲殺の免罪符としても使われようとしているのだとしたら、

生命倫理の議論において
「尊厳」が無益な概念かどうかを議論するエネルギーの何割かを
「愛」と「献身」がいかに胡散臭く“場違いな”概念であるかを議論することに回してもらいたいわ。私は。