立岩真也氏の「死の代わりに失われるもの」から、改めて「分かっている」の証明不能は「分からない」の証明ではないことについて

こちらのエントリーでお知らせしたように
明日18日、東京で日本宗教連盟の第4回宗教と生命倫理シンポがあります。

コーディネーターが東大の島薗進氏。
パネリストが立命館立岩真也氏、日本尊厳死協会理事長の井形昭弘氏ほか、と
もうゾクゾクするような顔ぶれなのですが、

その資料として立岩氏が事務局に送ったといわれるものが以下で、
死の代わりに失われるもの ―― 日本での動向の紹介に加えて

11月2日に韓国で開催された安楽死問題韓日国際セミナーでの講演内容だとのこと。

これを読んで、当ブログで一貫して主張してきた
「分かっている」と証明できないことは「分かっていない」ことの証明ではないということについて、
改めて、色々と考えました。

冒頭の部分に、以下のように書かれています。

私は、いついかなる場合にも延命のためのあらゆる措置がなされるべきであるという立場には立ちません。ただ、「植物状態」と呼ばれる状態において、その人の世界がどのようであるのか、たいへんにわかりがたいことはたしかです。意識がまったくないという推定が多く誤っていることが実証研究によって知られています。そしてそれ以前に、いくらかでも考えてみれば、その人の状態を判断する確実な手段を、その人の外側にいる私たちはもっておりません。また、回復の可能性、また回復とまでは言えないにせよ状態の変動がずいぶんとあることも知られています。ですから、この状態においてその人が生きることを止めることの不利益の可能性は否定できません。

ちょうど、つい先日、以下のような事件が報道されたばかり。


実は、このベルギーでの出来事に関する情報などを障害学のMLに投稿したことから、
私は天畠大輔さんという方と知り合いました。

天畠さんは今から13年前、14歳の時に急性糖尿病で倒れ、
医療ミスから一時は生死の淵をさまよい、半年間ロックトイン症候群に陥ったそうです。
その間、外科医とのコミュニケーションは完全遮断状態だったとのこと。

医師からは知能が下がっているといわれたそうですが、
お母さんは息子がふっと笑った顔に感じるものがあり、医師の言葉を信じなかった。
なんとか息子の意思を汲み取りたいと、独自にコミュニケーションの方法を工夫されて
そのおかげで天畠さんは意思疎通のすべを手に入れました。

介助者が「あ・か・さ・た・な」と言い、
天畠さんが体の動きで合図を送って50音のヨコの行を指定、
それが例えば「か」行なら、今度は「か・き・く・け・こ」と言って、また合図を送る――。

それがお母さんの考案された天畠さんのコミュニケーションの方法です。

お母さんに「へ・つ・た」が「おなかが空いた」の意味だと伝わった初めての瞬間には、
嬉しくて涙が止まらなかったそうです。

そうして一音ずつ時間をかけて言葉をつむぐという方法で、
東京都三鷹市ルーテル学院大学を受験、見事合格。

ただし、養護学校卒業から4年もかけて文部省やあちこちの大学と折衝し、
たいへんな苦労をしてのことでした。

去年、福祉学科を卒業、現在は同大学の臨床心理学科に再入学しておられます。

その天畠大輔さんが去年第43回NHK障害福祉賞を受賞した
「あ・か・さ・た・なで大学へ行く」という文章がこちら

必死に信号を送り思いを伝えようとするのに、
周りから分かってもらえなくて辛い思いをされたこと、
枕元に「いろはにほへと」が刺繍してある手ぬぐいがかかっている夢を見たことなど、
とてもリアルに書いておられてます。ぜひ、ご一読を。

ボランティアさんたちの体験談のある彼のHPはこちら

私は天畠さんの文章を読ませてもらった時に、東大の福島智教授のことを思い出しました。
福島先生の場合も、やっぱりお母さんが、見えない聞こえない息子と会話する手段として
あの、両手の指を使ったコミュニケーション方法、指点字を編み出されたのでした。


ベルギーのHoubenさんの報道から私がずっと考えているのは、

みんなが「どうせこの人には何も分からない」と決め付けている中で
本人が必死に送ろうとしている、か細い信号を
「もしかしたら……」と受け止めてくれる人が
誰か、たった一人だけいてくれたら、

その人は「意識のない人」から「意識のある人」へと変わることが出来る……ということの重大さ。

11月25日のエントリーで紹介したOTの川口淳一さんは、その後、
Houbenさんのケースをブログで取り上げて、
「これって誤診というより、誤解です」と書いている。

そして、こういう人は日本にも沢山いる、
リハビリテーションに出来ることはまだまだいっぱいある、と呼びかけている。

その「誤解」を解く努力を十分に尽くすことをしないでおいて、
「この人たちは、どうせ何も分からない」
「どうせ私たちとは違う世界の住人」だと、そこに線を引き、
治療を停止したり、殺したり死なせてもいいことにしたり、
または尊厳や身体の統合性を踏みにじったりしてもいいと決めてしまうことは
絶対に間違いだ……と改めて思う。

立岩氏は、上記リンクの文章で
人工呼吸器を必要とする重度障害者が、それを使わずに亡くなる率は
死に寛容な「先進国」において非常に高いと書き、

また、例えば、当ブログで拾ったMontanaの裁判での主張のように
どうせ死ぬのだから殺すことにはならない」などが、その例と思われますが、
omission もcommission も同じだとみなすことの危うさなどを指摘して、
「すべり坂」の懸念は現実だと語っている。

自分たちとは別だとされる人たちの死を認めることは、自分たちの死につながるという心配は、根拠のない心配とはいえないのです。日本でも、また他の国々でも表明されている懸念は、現実的な懸念であり、また現実であり、そして論理的に筋の通っているものでもあるのです。

そして、結びの部分。

ある人が人々に負担をかけることがあったとしても、それはそんなにたいへんなことではないはずだ、その人が、そしてみなが生きられるような社会が望ましいと主張してきた人たちがいます。韓国にもたくさんいらっしゃますし、この会場にもいらっしゃると思います。死の決定に対して積極的な欧米においても、それらの国々の障害者、障害者の組織の多くは、その動向を批判してきています。それを私たちは紹介しようとしてきましたし、これからもしていきたいと思っています。

なかでも生きるのが窮屈にさせられている人たち」によって、そう主張されてきたことに、
立岩氏はこの後で、特に触れている。

そういう人たちの声が、日本では大きく報道されることがないからこそ、
Ashleyのような重い障害を持つ子どもの親として、
私も、それらを拾い、紹介していきたい。

重い障害についてロクに知りもせず、「誤解」かもしれないと振り返ってみることもしないで、
やれ「どうせ何も分からない」の「赤ん坊と同じ」だの「人格じゃない」だのとホザいては
「ここから向こうの人たちは我々とは別」と線を引こうとする文化に対して、

「それは違うっ」と、これからも言い続けていきたい……と、強く思った。