「認知症はターミナルな病気」と、NIH資金の終末期認知症ケア研究

前のエントリーで触れた NEJMの認知症終末期ケア関連論文の1。

米国NIHが資金を出している、この研究
その名称からして、なにやら臭うのだけれども、

The Choices, Attitudes, and Strategies for Care of Advanced Dementia at the End-of-Life
(CASCADE)という。

「終末期における末期認知症ケアのための選択、姿勢、そして戦略」。

ボストン地域の22のナーシングホームに入所している
認知症が進んだ323人を18ヶ月間にわたって調査したところ、

認知症が最後の段階に至った人たちでは
「記憶障害があまりに重いために近親者ももはや分からないし、
6単語以上のものをいわないし、
大小便ともコントロールできないし、
歩くことも出来なかった」。

調査期間内に177人が亡くなった。
被験者の死亡率を高くしたのは、肺炎、発熱、摂食障害などの合併症で、
その他の症状も多く、終末期に近づくにつれて
傷みや褥そうや、息苦しさ、発汗などの不快な症状が増加した。

医療に関する代理決定件を付与された代理人の96%は
患者の安楽を第一に、と考えていたにもかかわらず、
調査期間中に死亡した人の41%では最後の3ヶ月に
救急搬送、点滴、経管栄養など何らかの医療介入が行われていた。

代理人の81%は合併症が起こる可能性を理解していたにもかかわらず、
医師から相談があったという人は3分の1だった。

……ということから、
論文の主著者のDr. Susan L. Mitchellが主張しているのは、どうやら、ぶっちゃけ、

代理人さえ、認知症の末期に合併症が起こるのは当たり前で、
どうせ治療しても予後は悪いんだということを理解していれば、
終末期になって、こんな利益の疑わしい介入をすることもなく
緩和ケアを受けることを選ぶはずなのだから、医師はそのつもりで選択させろ」

そこで、著者は声を大にして強調してみせる。

認知症はターミナルな病気です

認知症はターミナルな病気なのだという認識を
みんな、もっとしっかり持ちましょう、とね。

Dementia Is A Terminal Illness, Study
The Medical News Today, October 15, 2009


ううううぅぅ。ひっかかる。ものすご~く、ひっかかる。

ターミナルというのは病名を問わず段階のことでしょう?
ターミナルな病状( terminally ill)というのはあっても
「ターミナルな病気( terminal illness)」なんて、ありえないと思うのだけど、
そりゃ、一体なんなんだ?

実は、この妙な用語、自殺幇助議論に関連したニュースでは
ちょこちょこ目にするようになっている。

自殺幇助議論関係の文章を読んでいて、この用語に出くわすと、
私の中では警戒アラームが点灯するので、必ず、その人の病名と、
自殺を希望した時の病状を出来る限り確認することにしている。

そんな非科学的な文言を、それこそ“定義”もせず用いるMitchell医師って
一体どういう科学者よ?

この論文、the New England Journal of Medicine の10月号に掲載されたもので、
前のエントリーで取り上げたDr. Sachsの論説が同時に掲載されている。

表向き、両者は同じことを言っているフリをしている。

NIHの命を受けたMitchell医師だって、
認知症の末期の人の緩和ケアを見直せ」と一応は言っていて、
この論文を受けたSachs医師も一応は、その主張の意義を認めてみせている。

でもね、この2つの論文。
どう考えてもニュアンスはまるで逆。

Mitchell医師らの論文は「医療か安楽ケアかの2者択一」を迫るもの。
実質的には「どうせ死ぬんだから代理人は安楽ケアを選択しろ」と迫っているのであって、

そこから感じられる姿勢とは、
英国で今ちょうど問題になっている
「この人はどうせターミナル」と一旦カテゴライズされたら重鎮静で意識をなくして眠らせたまま
手間をかけずに脱水で静かにお亡くなりいただくことのルーティーン化ではないでしょうか。
(詳細は文末にリンクした関連エントリーに)

認知症はターミナルな病気だと認識しろ」とは、
その思考停止を医療サイドだけではなく、患者の代理決定件者にも迫っているのに他ならない。

どちらの論文も「緩和ケアの見直し」が必要と言っているのだけど、
こちらの研究は「緩和ケアを選択させろ。どうせ死ぬ患者に無駄な医療を行うな」という見直しで、
要するに「認知症患者の終末期ケアにコストをかけるな」と言っているだから、

Sachs医師の論説が「認知症患者の痛みや不快に、もっと細やかな観察と配慮を」と
緩和ケアにもっと金をかけろ、質をあげろと求めているのとは姿勢がまるで逆。

だから、たとえ、ある特定の患者さんでの医療決定が結果的に同じになったとしても、
その決定が患者さんにとってどういう意味を持つかも、
おそらく、まるで逆になるんじゃないだろうか。

例えば、この人に経管栄養は、もはや負担にしかならないとして
中止や差し控えの判断をするとしても、

Dr. Mitchelleのチームは、
その中止や差し控えの判断そのものが緩和ケア・安楽ケアだと捉えて
代理人にそういう判断をさせることに意を用い、たぶん、それ以上は考えない。

Dr. Sachsのチームなら、
栄養を中止したところから本当の緩和ケア、安楽ケアが始まると考えるんじゃないだろうか。

私は専門家ではないから、そこで何が出来るのかは分からないけど、
口が乾燥して不快そうだから水で湿らせるとか、
口腔ケアを丁寧にするとか、痛み止めを処方するとか、
それを、訪れた家族や代理人に声かけしながらやってもらうとか、
できることは個々に、いろいろあるような気がする。

目の前の患者さんその人とも、その人の人生の終わりともちゃんと向かい合って、
その人が感じている痛みや不快を知ろうと細かく観察し、
せめて、それを取り除いてあげるための工夫や手立てに意を用いると思う。

Dr. Mitchellのチームにとっては、そんなのは無駄なケアだ。
どうせ死ぬんだから。

どうせ「近親者も分からないし、6単語以上しゃべらないし、
大小便失禁で、歩くことも出来ない」んだから。

実は、この記事を読んで、この論文の中で一番怖いと感じたのは、この部分。

ここに挙げられている4つの状態は
いずれもターミナルであることとは本当は直接的には関係がない。

そればかりか、“Ashley療法”を「どうせ」と正当化する理由や
自殺幇助合法化議論で「生きることには尊厳がない」と言われる状態にぴたりと重なっている。

まさか、こんな状態を万が一にも「ターミナルな病気」の条件に使われたら、
意思・感情の表出能力の低い重症障害者はみんなターミナルにされてしまうのだけど、

こんなふうに、終末期医療からも、自殺幇助議論からも、パーソン論をはじめとする生命倫理からも、
包囲網はそこに向かって着々と狭められているような気がしてならない。