”ドナー神話”とは”母性神話”の再生産ではないのか?

相変わらず、映画「私の中のあなた」と”救済者兄弟”のことを考えている。

私がピコーの小説を知ったのは2007年のシアトル子ども病院生命倫理カンファでの
兄弟間の骨髄移植についての Dr. Pentz の講演を Webcast で聞いた時。

その講演でも紹介されていたし、
その後、あちこちで目にもしたのだけれど、

生体間臓器移植で臓器を提供するドナーは
自己肯定感や自信につながって、自尊感情が向上するといわれている。

つまり、臓器提供はドナーにとっても利益になるのだという説が
まことしやかに唱えられている。

(ただし上記のPentz講演は、これは成人での研究で言われていることだとして
子どもについては疑問視している)

ドナーは、自分が良いことをしたと感じて自己評価が上がるという話は、
映画でも、裁判のシーンで、医師らの証言の中に出てきていた。

映画を2度目に見た時に
私は、この「ドナー神話」に強いデジャ・ヴ感を覚えた。

それ以来ずっと考えている。

「ドナー神話」とは「母性神話」の再生産に他ならないのでは――?


女性であれば誰でも、子育ては本能的な喜びであり、苦にならないはず。
母親であれば、わが身を捨てても子を守ること、子を幸せにすることが他の何よりも大きな喜びのはず。

女性とは
自分を二の次、犠牲にして他者に尽くし、
他者を幸福にすることに喜びを感じるように作られた心美しい生き物なのだ。

だから、主婦にとっては、家族の健康と幸福が何よりも喜びであり幸せであり、
家族のために存在し、家族のために働くことが、主婦には大きな生きがいとなるし
もちろん介護だって、女性なら生まれながらに素養と技術を身につけている。

生み、育て、自分よりも他者を優先させて尽くす性として、
女性性は賛美され、神聖視され、称揚されて、

そうして他者の命や生活や労働を下支えする役割を女性は背負わされてきた。

社会にとって都合のよい相手に都合のよい役割を押し付けるために
自分自身は絶対にその立場になることがない人たちによって、都合のよい神話が作り出され、
それが様々な心理操作に利用され、社会の価値観や規範意識に根付いていく――。

母親になった女性が
「私は子育ても楽しいけど、仕事の方がもっと好き」とか
「子育てにそれほどの喜びを感じられない」と感じていたとしても
あからさまに口にするのがはばかられたり、
時には誰にも言えずに罪悪感や自責を抱えて苦しむほどに
性神話を内在化させてしまっているように、

臓器移植の必要な人の家族がドナーになることを当然視された時に、
映画のアナのように「腎臓をあげた後は用心しながら生きていくなんてイヤだ」と
本当は感じていたとしても口に出して言えないほどに、
愛があれば臓器提供は選択の問題にすらならない
「臓器提供はドナーに自信と誇りと喜びをもたらすはず」との神話は
すでにこの社会の中に根を張ろうとしているのではないのか。

しかし、それは、
女性に家事や子育てや介護を背負わせてきた「母性神話」が
今度は臓器の提供者を確保するための「ドナー神話」として再生産されているだけではないのだろうか?

そして、子育てや介護の負担に苦しむ女性からSOSの声を奪っているように、
ドナーと指さされた人から「イヤだ」と抵抗する声を奪っていこうとしているのではないのだろうか?

         
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このエントリーを書くに当たって、
ものすごく久しぶりに、上記、Pentz講演のエントリーを読んでいたら、

18歳以下の子どもは形のある(solid) 臓器の提供者にはなれない、という下りがありました。

…………???????

じゃぁ、「私の中のあなた」のアナは仮に本人が望んだとしても、
ケイトに腎臓を提供できないことになるし、

医師もそれを知っていなければならなかったことになるのだけど????

それに、この講演の質疑においても
提供しても再生産される骨髄と、再生産がありえない腎臓では提供後のドナーへの負担が違うので、
別の話として考えなければならないという議論もあって、

講演そのものが子どもでの兄弟間の臓器提供をテーマにしていることを考えると、
ちょっとこれも、どういうことなのか????


【10月19日追記】
「臓器目的で子ども作って何が悪い」とFostで拾った記事で
14歳で兄弟に腎臓提供をしたケースが言及されていました。

上記の18歳は、私の聞き間違いだったのか……?