“救済者兄弟”フランスでも2004年に合法化

映画「私の中のあなた」との関連で
先日からこことかここのエントリーで問題にしている
いわゆる“救済者兄弟”について、

今日、人から教えてもらった情報。

フランスでも2004年の生命倫理法改正で着床前診断の適応が拡張されて、
いわゆる”救済者兄弟”目的での着床前診断技術の使用が合法となっている。

今年9月刊行の「生命倫理」という学会誌(19号、29-36)に
それによって容認された第一子がファンコニ病であるケースを検討した
以下の論文が掲載されているそうだ。

「薬としての赤ちゃん」の倫理問題
― フランス生命倫理における人間の尊厳と人体の利用-
小出泰士


検索してみたら、
2002年段階の国家倫理諮問委員会CCNEの
検討報告らしき文書の仮訳(日本語です)がひっかかってきた。


この文書の位置づけとかタイトル、
前後の状況がイマイチ分からないものの、
ファンコニ病の2症例がここでは問題になっているようなので、

フランスでは、まずファンコニ病の子どもを持つ親からの要望があって、
それら具体的な症例の検討から、法改正議論に発展したということなのかもしれません。

それにしても、このCCNEの結論は、非常に微妙というかタテマエ論というか、

それがCCNEの悩ましさを物語っているのかもしれないけど、
だいたい以下のようなことを、何度も繰り返し、ぐるぐるぐるぐる語っている。

子供を産みたいという当然の願望と子供を物として扱う権利とを同列に考えることはできない。研究や医療行為を目的として胚を作製することが容認されないのと同様に、生まれてくる子供の立場からすれば正当視できない目的で妊娠に踏み切ることも許されるものではない。いわゆる「治療のために利用される子供」(remedial children)というのは、これまでにもいたに違いない。しかし今回のケースでは、そこに医療従事者が決定的な役割を果たしている。あまつさえ、生まれてくる子供自身のためではなくドナーのために胚を選択し子供をつくるというのは、CCNEが常々尊重している倫理観に照らしても、とうてい考えられるものではない。しかし、新たに子供を産みたいという願望が前提にあり、そのうえで今生きている子供の遺伝性疾患を治すことにも一抹の希望を寄せながら、その新生児の胚を選択するということであれば、それは第一義的な目的ではないにしても容認できる。

「まず、子どもが欲しいんですよね。ドナーが欲しいから作るんじゃなくて」

「はい。もちろんです。まず、子どもです。子どもが欲しいから生むんだけど、
 どうせ生むんだったら、ついでにドナーになる子どもがいいな……と。
 あ、あくまで、ついで、ですよ、ついで」

これって、まるで子どもの障害を理由に車の税金免除の手続きを受ける時の、

「子どもさんの送迎以外には、この車は使っていませんね。
 例えば、通勤とか買い物には使っていませんね」

「はい。もちろんです。子どもの送迎以外には乗らない車です」

「では、税金の免除を認めます」

あれと同じ……ような気がするんだけどなぁ。
(税務署の方へ:我が家では娘の送迎以外には車は使っておりません)


で、要約を教えてもらった冒頭の論文の趣旨はというと、

病気の患者を救うことは社会の義務であるとする「連帯の原則」の一方に
病気の患者を救うために身体の一部を提供するのは
あくまで本人の自発的意思によるものとする「自律の原則」を置いて考えたら
まだ意思どころか存在すらない第二子に第一子の治療手段であることを求めるのは
連帯性の行き過ぎではないか、

第二子の尊厳と統合性、傷つきやすさへの配慮を優先させるべきではないか。


CCNEの文書にも、連帯という言葉はあるので、
フランスの生命倫理の議論には、この「連帯」が原則の1つなのかもしれません。

私は英語ニュースで英語圏生命倫理の議論ばかりに触れているからか、

着床前遺伝子診断技術が主として
障害を持って生まれてくる子どもを助けるという「連帯」の拒絶に使われていることを
まず、考えてしまう。

フランスでは違うのかもしれないけど、
もしも英語圏生命倫理で病気の子どもを助ける社会の義務だとか連帯とかを持ち出されたら、
ダブルスタンダードも、たいがいにせ~よ……とムカつくだろうな。


これで、当ブログが把握している”救済者兄弟”を合法化した国は英国、スウェーデン、フランス。
スペインでも生まれているけど、その法的な位置づけは、このブログでは掴めていない。
米国では無規制とのこと。

【追記】
その後、送ってくださる方があり、小出氏の論文を読むことができました。
それで、こちらのエントリーを書きました。

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この、米国の無規制ということについて、ちょっと触れておきたいのですが、
現在Obama大統領の医療制度改革案をめぐって共和党からものすごい抵抗が出ていることの背景にあるのも、
医療はあくまでも個人の選択の問題だという米国人に根強い感覚のようで、

モンタナ州最高裁で進行していて、もうすぐ判決が出る裁判で焦点になっているのも
医師による自殺幇助を受ける患者の権利は州憲法で保障されたプライバシー権であるか否か、の判断。

Ashley事件でも、擁護派から根強かったのが
子どもの医療に関する決定権は親のプライバシー権である、との主張でした。

だから、例えば、”テクノによる簡単解決”で胃のバンディング手術を受けさせられる肥満の子どもが
米国では急増していたりもする、

また、米国では個々の医療に関する法的な判断は州にゆだねられており、
国家レベルの法規制の網1つで、ばさっと……という文化ではない、という背景も。

しかし、そういうことと
連邦法レベルで保障されているはずの、守られるべきものとしての人間の尊厳とか自由とか、
障害者の権利とかいったものとの整合性がどういうふうにつけられているのか、私にはずっと疑問で……。