Spitzibaraからパーソン論へのクレーム

前のエントリー森岡正博氏(29歳当時)による「パーソン論の限界」で取り上げた
森岡正博氏の「生命学への招待」は1988年に書かれたものだし
(29歳ですでに生命学の構想にたどり着いておられたのですね……すごっ)

私は森岡氏のブログはともかく、著書はこの他に1冊読んだだけなので、
その後の氏のパーソン論批判がどう展開されているのか、よく知らないし、

パーソン論についても私自身はAshley事件繋がりで限られた本を読んだだけだから
これこそ無知な素人ならではの恐れを知らぬ大胆とは先刻承知なのだけど、

「生命学への招待」が指摘した“パーソン論の限界”3点に、
ナマの重症児を直接体験として知っている母親として、
どうしても追加しておきたいモンクがあるので。

Spitzibaraが個人的にムカついてならない点は、まず、
知的障害・認知障害精神障害の実際について、無知というにも、あまりに度が過ぎる

例えば
マイケル・ガザニガが「脳の中の倫理」で「認知症患者」と書くとき、
それは常に寝たきりで認知機能がほとんど失われた末期患者のことを意味しています。

今回、パーソン論で検索して、京都大学の先生の以下の解説を見つけたのですが、
http://plaza.umin.ac.jp/~kodama/bioethics/wordbook/person.html

ここでも、「無能症児やアルツハイマー病の人」と平気で書いてあります。

アルツハイマー病の患者さんの実像を知っている人なら、
たぶん、こんな文脈で、多様な患者像を「アルツハイマー病の人」と一括りになどできない。

専門医がこの文章を読んだら、
こんなにも無知な人がこんなにも無頓着にアルツハイマー病に言及すること自体に
激しい憤りを感じるのではないでしょうか。

アルツハイマー病になったら、その時点で認知機能を全て失うわけではないし、
アルツハイマー病だと診断されたとたんに何も分からなくなるわけでもないのです。

手元にある故・小澤勲氏の「痴呆を生きるということ」から。

アルツハイマー病の経過は、個人差が極めて大きい。数年で言葉を失い、寝たきりになり、死を迎える人もあれば、痴呆は徐々に進行するが、10年以上にわたって一人暮らしが継続できるような人もある。(P.19)

痴呆を病む人たちは、一つ一つのエピソードは記憶に残っていないらしいのに、そのエピソードにまつわる感情は蓄積されていくように思える。叱責され続けると、そのこと自体は忘れているようでも、自分がどのような立場にあるのか、どのように周囲に扱われているのか、という漠然とした感覚は確実に彼らのものになる。(P.32)

以下、現実の認知症患者さんたちの、すぐ傍らにいた医師が
痴呆を生きることの苦悩を語る言葉は、こんなにも細やかなのだという一例を。

よりによって、最も世話になっている、あるいは近い将来世話になるだろう人たちに彼らはなぜ、激しい攻撃性を向けるのだろうか。(P.82)

彼らが激しい攻撃性によってこころの奥底に潜む不安と寂しさを覆い隠そうとしているに違いない、と気づかされる。(p.83)

人は、一つだけの感情なら何とか耐えることができる。しかし、まったく相反する二つの感情を抱くとき、あるいは相反する二つの感情をぶつけられとき、どうしても混乱し、困惑してしまう。(p.87)

もの盗られ妄想を抱く人たちもまた、二つの感情に引き裂かれている。つまり、彼らは喪失感と攻撃性の狭間で揺れ動いている。そして、この狭間にあるという事態が彼らを抜き差しならない窮地に追いやっている。(p.87)

アルツハイマー病」や「認知症」を引き合いに出してパーソン論を論じようとするならば、
少なくとも基本的なことくらいは勉強してからにしてほしい。

それらの病気を患う人に、こんなにも心を砕きつつ向けられる視線があることや
その視線の先に生まれる洞察の深さに触れてからにしてほしい。

(転じて自分たちの洞察の浅さに気づいてほしいとまで言うのは求めすぎかもしれないけど)

平気で「アルツハイマー病の人」と一括りに書き、
末期のイメージに都合よく乗っかってパーソン論を論じることに何のためらいもない人は
その表記そのものが、知的・認知障害の現実を何も知らないことの証拠であり、

ただ自分の頭の中にある観念としてのアルツハイマー病を
もしくは無知が描き出すアルツハイマー病のステレオタイプを云々しているに過ぎません。

これは「障害者」「知的障害者」「認知障害者」「精神障害者」についても同じ。

それとも、彼らは本当は無知なのではなく、
無知を装って、敢えて「障害」の多様性・程度のグラデーションを無視し、
都合よくイメージと言葉を使い分けて操作をしているのでしょうか。

森岡氏が定義の問題としてパーソンを扱うことの限界を指摘しているけれど、
パーソン論論者たちは定義の問題としてパーソン論を論じる一方で、
そのパーソン論を当てはめられる対象とされる障害者の方は定義しません。

具体的には一体どういう障害像の人のことを議論しているのかが
ただ曖昧なだけではなく、文脈によって都合よく変わるのです。

未定義のままの「知的障害者」や「認知症患者」が云々されていく中で、
具体的なイメージが必要な文脈では最重度ケースのイメージが用いられ、
そのくせ全体の文脈では最重度者のイメージに乗っかって導かれた論理に
知的障害者」「認知症患者」全般がいつのまにか乗せられていく。

例えばピーター・シンガーは「実践の倫理」の中で
知的障害者」「知能に障害を持つ人間」「知能に重大な障害を持つ人々」
はたまた「重大かつ回復不可能な脳損傷を受けた人間」などという言葉を、
あたかも、それら全てが同一の状態を指しているかのように定義もせずに平気で使いまわします。

Norman Fostが障害新生児を巡って無益な治療論を説く時に
引っ張ってくる症例は無脳症児ですが、

しかし、無脳症児のイメージを設定しておきながら
議論そのものは「重症障害児への医療」として一般化され、その無益が説かれます。

これは、シンガーが脳死者や植物状態の人をイメージとして提示しながら
同時に「知的障害者」を人格ではないと結論付けていくのと同じ。

そして、本当はたぶん、ここが一番いかがわしいところではないかと私はいつも思うのだけど、

これらは、現在世界中で猛威を振るっている自殺幇助合法化に向けた議論の中で、
「ターミナルで耐え難い苦痛がある人」を想定しているタテマエで、同時に
ほとんど“何でもあり”の「死の自己決定権」へと議論が拡大していく有様と
とても似通っていないでしょうか。

米国のラディカルな生命倫理の主張に触れると、
「とても論理的で高度に専門的な議論なのだゾ」というコワモテの陰に隠れて、
都合の悪いところだけは全く論理的でなかったり、論理が平気で飛躍していたり、
整理すべきものがグズグズのままに放置されていたりして、

高尚な学問めかした顔つきそのものが、ただのコケオドシなんじゃないか……と思えてくることすらある。

Ashley事件以降にわかに急進派に転身中で、
同時に倫理学者として出世街道を躍進中のDiekema医師が時に、妙に高圧的・挑発的になるのは、
最初からタカビー口調でなければ押し通せないことをやっている自覚がある時の
ただのハッタリでありコケオドシだったりもするし……。


【A事件関連で読んだ本のいくつかと、それらのパーソン論的語り口に関して
批判的に考えてきたことのエントリー】

ピーター・シンガー「実践の倫理(新版)」について
P・Singerの「知的障害者」、中身は?(2007/9/3)

マイケル・ガザニガ「脳のなかの倫理 - 脳倫理学序説」について
「認知症患者」は、みんな「末期」なのか?(2007/9/2)

James Hughes “Cytizen Cyborg”について
サイボーグ社会の“市民権”(2007/11/23)
チンパンジーに法的権利認める(スペイン)(2008/9/3)

ラミーズ・ラム「超人類へ! バイオとサイボーグ技術がひらく衝撃の近未来社会」について
THニストの描く近未来(2007/11/17)
Naamの障害者観(2007/11/19)

レイ・カーツワイル「ポスト・ヒューマン誕生:コンピューターが人類の知性を超えるとき」について
カーツワイル「ポスト・ヒューマン誕生」(2007/9/29)
多数のため少数の犠牲は受け入れよ、とカーツワイル(2007/10/1)
             

Peter Singerは去年NYでの認知障害カンファレンスの前後に、
ダウン症児の親とのメールのやり取りで

ダウン症の実際についてあなたはこんなにも無知だ」と指摘され
自分でもそれに気づいて「では教えてくれないか」と応じたという話があったのですが、
エントリーを立てておこうと思っているうちに、見失ってしまいました。

それから、Singerは何年か前に母親をアルツハイマー病で亡くしているのですが、その際に
自分の母親には最後まで手厚い医療を受けさせたのは言行不一致との批判に対して、
「やはり自分の母親となると話が別」と言ったり
「自分はかねてからの主張どおりに治療停止を望んだが、
あれは妹(姉かも)の希望だったので仕方が無かったのだ」と
発言が揺れた、という話もありました。

これも、まとめようと思っているうちに、見失ってしまいましたが
いずれも、そのうち穿り出せたら、と思っています。