科学とテクノ・倫理委員会・法をぐるぐる考えてみる

Ashley事件から、医療と法の関係というのが、よく分からないままでいる。

分からないまま、このブログを通じて
“科学とテクノによる簡単解決万歳”文化が世界中を席巻していく有様を眺めていたら、
医学を含めた科学とテクノと法の関係というのも気になっている。

知らないことだらけで、どこを取っ掛かりにしていいか分からないので
とりあえず見つけた位田隆一氏の論文を元に考えてみたのが、こちらのエントリー。


また、米国の医療がその専門性を盾に法の束縛から自らを切り離そうとする際に
その正当化の装置として機能しているのが病院内倫理委員会なのでは……?
というのも、ずっと引っかかっている。

当ブログの発想は、ことごとくAshley事件を原点としているもので
いつもこの事件を引き合いに出して申し訳ないのですが、

Ashley事件では、
QOLの維持向上や介護負担の軽減目的で重症児の体を侵襲することついて
主として「倫理委員会が認めたのだから」との正当化が繰り返されました。

しかし、そのAshley事件こそ、当ブログの検証によれば
病院内倫理委員会の政治的な脆弱性の象徴のようでもあって……。

施設内倫理審査会(IRB)のような法的な位置づけを欠き
いまだに米国内でも設置状況や活動内容・レベルにバラツキが指摘されている、
病院内の(つまり、ある意味で私的な)倫理委員会の判断が、
どうして法や社会規範を超えることの正当化になるのか、

ここのところが、ずううううっと納得できないで、引っかかりになっている。

そしたら、上記の位田教授の論文のすぐ後に、
米村滋人・東北大学準教授が書いておられる論文が目に留まった。

「医学研究における被験者意思と倫理委員会 - 生体試料提供の諸問題に着目して」
ジュリスト No 1339、2007・8・1・15

研究被験者による生体試料提供に文脈が限定されているし、
もちろん、この論文は日本のものだけど、

倫理委員会の問題点の指摘として、例えば

急増した倫理委員会の質を担保するには組織論的検討も必要ではあろうが、いかに見識の高い委員による公正かつ真摯な討議がなされても「倫理性」判断を半ば白紙委任することは結論の合理性・安定性確保の上で問題が大きく、実態的判断基準の明確化があわせて追求される必要があろう。(P. 11)

……特に、倫理委員会の機能ないし権限が被験者意思といかなる関係に立つかは制度設計に際し極めて重要であり、被験者に同意能力がない場合や「代諾」権者との利益相反状態が存する場合の倫理委員会の権限を決するには、両者の機能に関する大枠の制度設計が明らかにならなければならない。(p.11-12)

このように、臨床指針は私法的観点からの不備が著しいが、翻って考えると、これは結局、従来の学説が生体試料をめぐる法律関係の緻密な分析を怠ってきたことに起因するとも考え得る。(P.13)

最後に、「倫理問題」を法律問題として分析することの重要性を強調したい。ヘルシンキ条約や近時の行政指針は一般に「倫理指針」と位置づけられているが、一定のルールとして機能させる以上は、国家法との矛盾・抵触が放置されてはならない。既存法の中にも複雑な利益状況に対応すべく発達した様々な法制度や考え方が存在し、そのような既存法の「知恵」を活用しつつ当該事案の特殊性に基づく必要な訂正を行うことは、問題解決の妥当性や安定性を確保する上でも重要である。(P.17)
(ゴチックはspitzibara)


まさに、Ashley事件がそうで、
親が希望した医療介入の倫理性の検討は倫理委員会に白紙委任された。

そして、その倫理委は、裁判所の命令を義務付けた州法を丸無視した。

それでも、世論はそのことを大して問題にせず、
この問題を法とは無関係な倫理問題であるかのように捉え、
また単に愛情の問題であるかのようにも扱った。

さらにDiekema医師らは今回の成長抑制論文では、
明確に裁判所の介入を否定し、病院内倫理委に“白紙委任で十分”、と主張している。


「倫理問題」はもっと法律問題として分析されなければならない──。

医療を含む科学とテクノは
既存法の文言や既存法がかけている規制だけではなく、
そこに具現された理念・精神、目指そうとする方向性を
もう少し謙虚に尊重するべきなんじゃないのだろうか。

例えば知的障害者不妊手術を禁じる州法の文言だけでなく精神を尊重すれば
WPASが主張するように、子宮摘出だけでなく乳房芽の切除も成長抑制も
自己決定能力のない知的障害者の体への侵襲であると捉えることが
州法の精神の方向性にかなっているはずだと思うし、

そういう意識が、
国会議員を中心に今回の日本の臓器移植法改正議論に加わった人たちにもう少しあったら、
あれだけの濃密な議論を重ねて作られた現行法に込められた精神と願いを
あんな拙速な議論で無に帰してしまうような採決もありえなかったはずだと思うのだけど、

もしかしたら、米村氏の言うように、既存法がそうした社会の知恵の集積であるからこそ、
科学とテクノの世界の論理は、法の拘束から逃れようとしているのだろうか。

ちょっと前に、ある人から「法の歴史性」という言葉を教えてもらった時に、
その「法の歴史性」こそ、人間の社会が集積してきた「知恵」というものではないのか、と思った。

それは、反転すれば、
これまでずっとトランスヒューマニストや科学とテクノ万歳文化に対して、
「この人たちって知能と知識だけで、知恵ってものがない……」と感じてきたことに繋がる。

もしも“科学とテクノ万能”文化が
「これからは科学とテクノで何でも可能になる!
みんな科学とテクノでもっと快適で健康で優秀でハッピーになろう!
だから、その実現こそ、何者にも優先するべき価値!
科学とテクノの恩恵にあずかるかどうかは自己選択!
みんな、あれもこれも個人の幸福追求権!
法も含めて、他人が口を出すことじゃない!」と
我々一般の無知な大衆に向かって説いているのだとしたら、

それは、もしかしたら
「さぁ、人類が長い歴史を経て集積してきた知恵を、みんなで、かなぐり捨てよう」と
説いているのに等しいのかもしれない。

でも、その人類の知恵には、
合理で説明がつかないものに価値を見出し尊重し、
それに対して畏怖・畏敬の念を持ち続けることも含まれているし、

そういう知恵こそが人間がこれまでの長い歴史の中で築き上げてきた
文化というものの基盤であり厚みのような気がする。

科学とテクノはあくまでも文化の一部であって、
文化が科学とテクノの一部をなしているわけではないのだけど、

どうも科学とテクノの人には、
そこが逆転して捉えられているのではないだろうか。

自分たちの閉じた世界と、その外の一般の世界との広さの違いについて、
とても大きな誤解があるのではないだろうか。

だからこそ、外の、もっと広い世界にいる我々無知な一般大衆の方は
その2つの広さ・大きさの違いについて揺るがぬ認識を持っていることが
今とても大切なんじゃないだろうか……と、この頃、考えてみるのだけれど。




ちなみに米国の倫理委員会を含む倫理コンサルティングの実態調査は
2007年2月にこちらの論文で報告されています。
ばらつき大。課題多数。