Deikema&Fost論文の「重症の認知障害」が実は身体障害であることの怪

Diekema、Fostらの成長抑制論文についてのエントリーです。

論文は冒頭部分で
「重症の認知障害」が未定義であること、線引きが難しいことは認めつつ、
成長抑制目的で「重症の認知障害」という場合には以下の3つを条件とし、
重症児医療の経験のある小児科医がこれらを永続的だと判断すればよい、と述べています。

その3つとは、
・歩かないこと
・日常生活が全介助であること
・ニュアンスによるものも含めコミュニケーションができないこと
(いわれることが理解できない、自分の意思や感情を表現できない)

この部分について、私が大いに問題だと感じるのは2点。

まず、
成長抑制を目的にした場合に限っての「重症の認知障害」という基準を
特別に設ける、と彼らは述べているわけで、

その論理は日本の脳死臓器移植法の論法と同じく、
先に目的ありきで、その目的を実現するためだけに
その目的に適応する場合のみの便宜上の定義を作りましょう、と

つまり「方便としての定義」を、わざわざ別枠で作ろうとしている。

次に、しかし、いかに方便といっても、
この論文を読む人には、ここをよく考えて、たぶらかされないでいてもらいたいのだけど、

「歩かない」ことは身体障害です。

「日常生活が全介助である」ことも直線的に認知障害と結びつくわけではなく、
身体障害が重ければ、認知障害が全くなくとも全介助になりえます。

3つ目のコミュニケーションの不能についても、
身体障害によって意思・感情の表出能力が奪われている状態はありえるため、
コミュニケーションの不能は必ずしも重症の認知障害を証明しません。

つまり、ここに書かれていることは
成長抑制療法の対象とする場合に限り、
重症の身体障害を認知障害として捉えましょう」という
無茶苦茶な主張なのです。

なぜ、こんな無茶苦茶なことを言い張ってまで
成長抑制療法は重症の認知障害に対処するものであると主張するのか。

きっと著者自身、
成長抑制は実は身体障害が引き起こす介護負担の軽減でしかないことを知っていて、

その上で、認知障害
「やってもいいよね。どうせ本人には分からないんだから」という
正当化のアリバイに利用しているだけだからではないでしょうか。

成長抑制療法が世論から支持されるためには
あくまでも「どうせ何も分からない重症の認知障害者」が対象でなければならないのです。

「重症の身体障害児にホルモンを大量投与して成長抑制を」と主張したところで
世論には受け入れられないのが明白だから。

そのため、あくまで看板は「重症の認知障害を対象に」なのだけれど、

その条件の中身には、さりげなく重症の身体障害を並べて、
「成長抑制目的の場合には、これらを含めて重症の認知障害と定義する」といえば、
世論はごまかされてくれる。2007年の論争の時と同じように。

なんという言語道断の欺瞞なのだろう。

しかも、この論法には、
重症重複障害児への成長抑制療法が一般化された後には
重症の身体障害児へも対象が拡大されていく可能性が潜んでいます。

論文の一説には
成長抑制の対象は「現在のところでは」
身長が低いことが社会的・心理的な体験を阻害したり、
セルフ・イメージにマイナスの影響を及ぼすことのない重症の認知障害に絞るべきだろう、との表現があり、

わざわざ「現在のところでは(at present time)」と但し書きがついている。

いずれ「重症の認知障害」以外にも拡大されていく可能性も匂っているのです。

なぜ、この医師たちは、こんな詐欺まがいの情報操作をしてまで
一重症児の父親が思いついたという成長抑制療法を一般化しようと画策しているのか。

この論文から考えなければならないことは、
成長抑制療法の妥当性でもリスクや利益でもなく、
実はそちらの問いの方ではないでしょうか。