W・Smith が日本の受精卵取り違え事件をとりあげる

Wesley Smith が自身のブログ Secondhand Smoke で
日本で起きた受精卵取り違え事件を取り上げています。

「どんな手段を使っても欲しいものは手に入れる権利がある」とする
“権利がある”文化(Entitlement Culture)に対して
自分はずっと警告を発してきたが

今回日本で起きた悲劇は、その文化の縮図である、という論旨。

子どもがほしいという女性が赤の他人の卵子を使って生む──。
5つの胚を子宮に入れて選別で弾いた余剰胚3つを廃棄する──。
健康上の理由で、または仕事を中断したくないという理由で
貧しい女性を代理母に雇って子どもを産んでもらう──。

すべて「女性の生殖権」なのだから、
我々はこれらについてコメントすることを許されない。

ところが全員IVFで生んだという子どもが既に6人もいる女性が
さらにIVFで8つ子を産んだとたんに非難の嵐が起きた。

ここまでくると、
「なんだって個人の選択」社会もさすがに平成を失うのだが、
しかし、何でもアリを許してきた社会に
8つ子の母を非難する権利があるのか。

その過程で命を傷つけたり犠牲にすることの道徳的なコストなどお構いなしで、
欲しいものは何でも手に入れる権利が我々には等しくあるという社会を、
この領域(生殖補助医療)はますます具現していく。

しかし、知恵に耳を澄ませば、我々は時に限界の範囲内で生き、
その中で最善を尽くさなければならないこともある。

もちろん、それで苦しむ人はいる。
ならば、その苦しみに共感し、それを軽減するための支援をするべきだろう。

しかし、そのことが、より健康な社会を形作ることにも寄与するのだ。
その教訓を忘れたことで、我々は高いツケを支払っている。




私は新聞の関連記事を読み、いくつかのテレビニュースを見ただけなのだけど、

事件が伝えられる文脈も、
出てくる専門家や町の人のコメントも、

被害者としての親の立場に立って
テクニカルなミスをした医療の責任を追及するトーンのものが多い……という気がする。

でも、この事件を知って心がざわめくのは、これが、ただ
テクニカルな間違いが起こらないように注意する義務があったのに
サービス提供者がそれを怠ったためにサービス購入者が身体的精神的な苦痛を被った……という
単純な話じゃないから……のはず。

もちろん、他人の受精卵を入れられてしまった夫婦が被害者であることは間違いないし、
その肉体的、精神的なダメージはどんなにか大きなものだろう。
誤って他人の子宮で成育した自分の胚を中絶されてしまった夫婦もまた
被害者であることは間違いないのだけれど、

誰もあからさまに触れようとしないところに、
もう1人の被害者がいる。

この事件のニュースで私が一番心ざわめくのは
本来ならそのまま生きるはずだった命が抹殺されてしまったという事実に
誰も正面から触れようとしないこと。

この医師による受精卵の取り違えが過去にもあったとすれば、
現在、既に生まれて別の親の子として暮らしている子どもの存在は一体どうなるのだろう。

この事件では生物学上の両親には知らされないままに中絶されてしまったわけだけれど、
その胚の所有権は本来、一体誰にあったのか。

もしも生物学上の両親がミスについて知らされて
自分たちの子どもを殺されたくはないから
このまま代理母として生んでほしいと望んだとしたら、
一体それは倫理的にはどういうことになるのだろう?

ざわめく心の中から沸きあがってくる疑問は
テクニカルに簡単解決できないものばかり……。