「正しい殺人には罪悪感を感じるべきではない」倫理学の思考実験

英国のMS女性の
「私の自殺を手伝う夫を罪に問わないで」という訴え
それはむしろ罪を背負う覚悟でやってくれと頼むべきことなのではないか……などと考えていたら

先週の「伊で安楽死の女性、死因は心臓発作」のエントリーに
安楽死は相手に自分のために殺人犯になってくれと頼むのと何が違うのか」と
なんさんから頂戴したコメントで思い出した医療倫理の思考実験が、またぞろ気にかかってきたので。

「医療倫理」(トニー・ホープ著 岩波書店)という本にあった思考実験の話。

運転手が炎の噴き出るトラックのから抜け出せないでいる。彼が助かる道はない。間もなく焼死するだろう。運転手の友人がトラックの近くにいる。この友人は銃を持っており、射撃の名手である。運転手は友人に自分を打ち殺してくれと頼む。焼死するよりも、撃たれて死んだ方が苦痛が少なくてすむだろう。

法的考慮はすべて度外視して、純粋に道徳的な問いとして尋ねてみたい。はたして友人は運転手を撃つべきだろうか。

普遍的な答えがあると前提している点で
この思考実験の問いは人間の関係性とか心理の複雑さを無視していて
始めから無理があるのでは……と私は思ったのですが、

同時に頭に浮かんだのは、なんさんと同じ疑問で、

もしも運転手がここで「撃ってくれ」と頼むとしたら
殺人を犯すという究極の負担を自分のために引き受けてくれと
相手に向かって頼むことなんじゃないのか。

それならば、
頼めるだけの信頼関係が2人の間にあると、
少なくとも運転手の方が信じていなければ頼めないのではないか……と。

「だから友人という設定にしてあるではないか」と
この思考実験を考えた人は反論するのだろうけれども、
でも、友人関係というのは、それほど単純なものなんだろうか……。


著者がこの思考実験で挙げている
「撃つべき」とする理由

① 苦しみが少なくてすむ。
② 運転手が望んでいる。

「撃つべきでない」とする理由

① 撃っても傷つけるだけで終わった場合に撃たなかった場合よりも大きな苦痛を与える。
② 運転手が焼死を免れる可能性
③ 長く罪の意識を感じなければならない友人に公平でない。
④ 人を殺すことは不正という原則を曲げると「滑り坂」になる。
⑤ 延命治療差し止めは死を自然に任せるが、殺すことはその逆で自然への介入である。
⑥ 神を演じることになる。
安楽死は自然に任せることだが殺人は根本的な不正である。


著者はこの後、
「撃つべきでない」①から⑦の理由を1つずつ論じて、
それぞれに十分に説得的な論拠になりえてないと結論していきます。

(もともと、この思考実験そのものが
医療現場における安楽死正当化の文脈で登場しているものです)

しかし著者が①~⑦を1つずつ否定する議論は
人を人とも思わない、なんとも浅薄なもので、

例えば①について著者は
「撃たなかった場合」「うまく撃ち殺せた場合」「傷つけただけで終わった場合」
それぞれに運転手が経験する苦痛の総量をX、Y、Zとし、
それぞれが起こりうる確率との掛け算をすれば
撃つことが正しいと主張します。

でも、こんなのは運転手と友人の関係性によって全然違う話になる、
それが人間関係というもんでしょうが……と
私はここを読んだ時に絶句した。

友人だから2人の間に単純明瞭な愛情と信頼だけがあるなんて
私には考えられないし、

2人が友人として過ごしてきた年月には
温かい思い出や恩義や感謝や愛着やいおとしさが積み重ねられてきたであろう一方で
それぞれに対する優越感・劣等感・嫉妬や猜疑や特定の出来事へのこだわりといった
ネガティブな思いも複雑に積み重ねられているはずで、

そもそも運転手が友人に「撃って」と頼むことそのものからし
「こいつならそれを引き受けてくれる」と確信できる間柄だと
少なくとも運転手の主観では理解されているのか、
それとも「そんなことを頼める間柄ではないのだけど頼んでみるしかない」と
捉えられているのかによって、出発点がまるで違う。

「こいつは自分が苦しむのを心の底で喜んでいるに違いないから、
そうさせないためにも撃たせたい」と考えて
「撃って」と頼むことだって、
友人だからこそ、ありうるかもしれない。

つまり、2人の関係性によって
運転手が経験する苦痛も、ただ単に肉体的な苦痛だけではないはずで、
そんなことをあれこれ考えてみれば、
「撃たなかった場合」「怪我だけさせた場合」「撃った場合」の苦痛なんて
客観的に数値で大小を比較できるようなものじゃないのでは……?

この先も生きていく友人が抱え込まざるを得ないものについても
同じことが言えるはずだと思うのですが、

さらに著者は③について
だいたい次のように反駁しています。

この思考実験の目的は
この場合に「撃つ」という行為が正しいかどうかを決めるためのものであり、

「もしも運転手を打つことが正しいのであれば、
友人は彼を撃った場合(そうすることで運転手の苦しみを減らした場合)に
罪の意識を感じるべきではない」

だから罪悪感を感じる可能性は論点を先取りしていることになって、
行為の正しさを決める理由にはならない。

あははは。

「罪の意識を感じるべきではない」と
おエライ倫理学者サマが決めてくださったら
人間てな罪の意識を感じなくなるものなんっすか。

知らなかったなぁ。

正しいことをしたと頭でいくら自分に言い聞かせても
心の方は、そう思い通りに言うことを聞いてくれない、
やってはならないことをやってしまったと心が感じるならば
罪悪感からなかなか逃れられないのが人間てもんで、

そういうのが人を人たらしめる“倫理”感というものだとばかり
凡人は思い込んでいました。

もしも
「殺人はこの場合は正しいのだから罪悪感を感じるべきではない」と
高いところから命令するのが生命倫理学者だとしたら、

「理屈をどうこねくり回されようと苦しい」と感じてしまう下々の人の心のほうが、
よっぽど倫理的だし信頼に値するじゃないか、と思う。

案外、だからこそ、高いところから号令をかけたい人たちは
人には心があることを無視して話を進めるのかもしれない。