Singerが障害当事者の活動家に追悼エッセイ

クリスマス・イブにNY Timesに。
タイトルは「にもかかわらず幸福」。

重度身体障害のある弁護士で何冊かの著書もある障害者運動の活動家、
今年6月に亡くなったHarriet McBryde Johnsonさんとの交流について書いたもの。

2001年にCharleston大学でSingerが講演を行い、
重症障害新生児の安楽死は認められるべきだと説いた際に
Johnsonさんが会場から異を唱えたのが交流の始まり。

その際、Johnsonさんは
それでは自分の親も自分が生まれてすぐに自分を殺してもよかったことになるが、
自分は現在弁護士になって幸福に暮らしており、
障害があるからといって
それだけ人生が生きるに値しないものになるわけではないと反論。

その後、SingerがPrincetonの学部の授業に招待したり、
Singerの発言を巡ってメールで議論もした、と。

で、彼女との付き合いからSingerは以下のようなことを考える。

彼女の人生は明らかによい人生だった。それも当人にとってのみならず良い人生だった。なぜなら彼女は弁護士としても障害者の代弁者としての政治活動においても、他者にとっても価値のある仕事をしたから。障害者が障害のない人たちと大して変わらない生活が送れれば一定の満足をしているという調査があることは知っているが、それは長期の障害によってその人が多くを求めなくなって、より少ないものに満足するようになるからだろうか。それとも慣れてしまえば重い障害は本当に人間の幸福に影響しないものなのか?

それから、Johnsonとのやり取りの中で
Singerが説いたこととして

重い知的障害のあるヒトに権利があると彼女が考えるのであれば、
動物についても同じように考えるべきだ、
動物たちも彼女が生きる権利があるとして養護している人たちと
同じように、またはそれ以上に生を楽しんでいるのだから。

このエッセイの締めくくり方はちょっと微妙で、

妹さんの話では、
Johnsonが自分の死について一番気にしていたのは
死後いろんな人がきっと自分についてバカなことを言うだろう、ということだった。
実際、「天国では彼女も思うように歩いたり走ったりできる」といった弔意のコメントもあった。

こうしたコメントは2重にJohnsonに対して無礼である。
まず、彼女自身、死後の生を信じていなかったから。
次に、走ったりスキップできなければ天国の至福は得られない、と
なぜ決め付けるのか?


Happy Nevertheless
By Peter Singer,
The NY Times, December 24, 2008


これを読んで、真っ先に思ったのは、
「障害があったら幸福になれるはずがないのに」という前提に立った
アンタのタイトルの方がよっぽど故人に対して無礼だよ……と。

だいたいJohnsonは最初にSingerの講演に反論した際も
「自分は幸福である」と本人の主観で主張しているのだから、
本人が幸福に生きた人生を
わざわざ他人が「good life であった」などと
自分の勝手な価値判断で“評価”するなんざ、
無礼の極みでなくて、なんなんだ?

しかも、その価値判断の根拠が
「他者にとっても価値のある仕事をしたから」。

アンタ、いったいナニサマのつもりよ?