「私だけが鬼みたいな母なのだとばかり……」

20年前の母子入園でのこと。

何の用でどこへ行こうとしていたのかは覚えていないのだけど
その日、私は同じ入園仲間のお母さんと2人で母子棟を出て
本館のエレベーターに乗っていた。

母子棟を出てしばらくしてから、
ここにたどり着くまでの日々がいかに大変だったかという話になって、
エレベーターに乗り込む頃には、ほとんど我を忘れてお互いの来し方を話していたのだったと思う。

子どもは共に1歳になったばかり。

それまで、誰にも言えなかったし、
誰に話したところで分かってもらえるはずもなかった怒涛の1年間のことを
やっと語りあえる相手を見つけて、どこかタガが外れたようにしゃべりまくっていた。

なにしろ私たちは子どもが生まれた時に
何の心の準備もないまま一瞬にして「障害児の母親」というものになってしまったのであり、
自分自身はそれ以前の自分と何も変わらない同じ人間なのに、
それ以来どこへいってもエラソーに教育され指導され叱られ小突かれ
どうしようもなく無知で無能で子どもじみた存在のように扱われて、
いきなり今までとは全然別の世界に投げ込まれたような戸惑いと孤独と不安の中で、
やっかいなことだらけの子育てに身を硬くしていたのだから、

母子入園でやっと同じような子を持つ母親仲間と出会った時には
みんなが言葉の通じない外国でやっと同国人に出会えた人のような顔になったし、

それぞれに専門家の心無い言動に傷つけられてきた痛みや
世間の人たちの無理解に感じた悔しさや
同じ体験をした者にしか分かりようのない子育ての辛さを
次から次へと饒舌に語り合って飽きなかった。

その日、エレベーターに一緒に乗った人とは子どもの障害像が同じだったから
他の人以上に同じ体験を重ねてきた者同士の気安さも手伝って
夜毎の娘の号泣に付き合った日々の辛さを語るうち、
つい私は「ほんと、もう殺してやりたいっていう気分になったよ」と口にしてしまった。

もともと露悪的な傾向がある上に勢いがついているので、
自分が何を言ったか、ほとんど意識していなかったし、ドアが開いたので
私はそのまま盛大にしゃべりながらエレベーターを出た。

数秒後、
続いて降りてくるはずの気配がないので振り返ったら、
その人はエレベーターの奥で立ち尽くしていた。
顔色が変わっていた。

気分でも悪くなったのかと、戻って声をかけたら
彼女は立ち尽くしたまま、ぽつんとつぶやいた。

「私だけだなんだとばっかり……」。
「……?」
「あなたも、そんなことを思ったなんて……」

彼女の目から涙がボロボロッとこぼれるのを見た瞬間に
初めて自分が言ってしまったことに気がついた。

「──うん。考えたこと、あるよ。
窓からこのまま投げ捨ててやりたい衝動に駆られて、本当に危うい瞬間もあった」

彼女はエレベーターから出てくると、うつむいたまま

「私ね、子どもが何度も何度も熱を出してちっとも元気にならなくて
泣いてばかりいるし、けいれんは治まらないし、
これ以上どうしてやったらいいのか分からなくて辛くて堪らなかった時に、
こんな子、いっそいなくなってくれればいいのにって考えたことがあった。

それで、そんなことを考える自分はなんて酷い親なんだろう、
こんな恐ろしい鬼みたいな母親はきっと世の中に自分だけだって、ずっと……。」

またちょっと泣いてから顔を上げると、

「あなたは強い人で、そんなことなんか考えることもなく
ミュウちゃんの世話をしてきたんだとばかり思ってた。
そんなあなたでも考えたことがあるんだって聞いてびっくりしたけど、
でも、ちょっと、ほっとした」

そして、曇り空に薄日が差すような微笑み方をした。


     ―――――


私は口調がスピッツみたいだから、よく強い人間だとカン違いされるし
確かに20数年前のあの日の私はまだ自分のことを強い人間だと考えていたかもしれません。

少なくとも「もう殺してやりたいような気分になった」などと口にできたのは
相手が同じ痛みを知っている気安さだけでなく、
「自分たち親子の一番辛い日々はもう終わった」と
オメデタくも考えていたからでした。

人は過酷な辛さのさなかにある時には、
その辛さを語る言葉を持ちにくいものなのではないでしょうか。

人が自分の中にある弱さや醜さを言葉にして語ることができるのは
その弱さや醜さ、辛さに苦しんでいる時期が過ぎて、
ある程度まで乗り越えることができた後なのではないでしょうか。

(これもまた苦しい人が自分から助けを求めることができにくい要因の1つかもしれません)

私は当時、娘が生まれて最初の苦しい1年間をかろうじて生き延びて、
母子入園でリハビリを習い、母親仲間とも様々な専門家とも出会って、
「やっと障害のある子の母親としてスタートラインに立てた。
さぁ、これからが私たち親子の戦闘開始。やってやろうじゃないの」と
ほとんど過剰なほどの闘志を燃やしていました。

だから、辛かった時期のことも露悪的な言葉にできたし
戦闘体制を整えた緊張感に支えられて、強い自分をつかのま保つことができていたのだろうと思います。
どこかに「私は強いから大丈夫」といううぬぼれもあったかもしれません。

でも現実はそんなに甘くはないのです。
あの日の私には想像すらできなかった過酷な日々がその後もまだまだ待っていて、
私は自分がどんなに醜く弱い人間かということを何度もイヤというほど見せ付けられたし
人間としての機能を停止するほどのボロボロ状態にもなりました。

あの日から20年以上を経た今、私は
こと介護や負担の大きな子育てに関する限り、
どんな状況でも常に前向きに明るく何年も頑張り続けられるほど強い人なんて
世の中には存在しないし、存在しなくてもいいし、しないほうがいいと考えています。

この20数年の間に日本の社会は確かに変わりました。
あの当時は遠い北欧の話でしかなかった福祉サービスが日本でも実現したし、
高齢者福祉が充実するにつれて障害者福祉も、
次いで障害児の親への支援も徐々に整ってきました。

私たちの時代には携帯もインターネットもなく
今のように簡単に情報を手に入れることなどできなかったし、
仲間と繋がることも、自分の思いを表現したり発信することも簡単ではありませんでした。
今の若いお母さんたちは、あの頃の私たちに比べれば
もう少し風通しのいい子育てをしておられるのかもしれません。

それでもなお、
「自分が母親なんだから」「自分は母親なのに」と自分を責めて
そのために、助けを求める一歩を踏み出すよりも逆に
もっと閉塞してがんばるしかないところへと自分を追い詰めてしまう人は、
今でも沢山いるのではないか、という気がしてなりません。

制度や支援サービスそのものがあっても、
利用するための一歩を踏み出せないように母親の心に規制をかけてくるものが
日本の社会(というよりも世間?)には今なお根深いのではないでしょうか。

あの日エレベーターで立ち尽くしていた友人の姿を思い出すたびに、
20年経った今でも、自分を責めながら立ちすくんでいる若いお母さんたちが
日本にはまだまだ沢山いるのではないか、と心が痛みます。

それはもちろん障害のある子どもの母親だけではなくて、
負担の大きな子育てや介護を担っている多くの人に
共通して言えることのような気がします。



初めて読んだ時から、
そういう人に、できることなら手渡してあげたいと、ずっと願ってきました。
このほど、その思いをこめて、拙いのですが訳してみました。