介護を巡るダブルスタンダード・美意識

たぶん一般的な子育てや、
障害のある子どもの子育て、
障害児・者のケアや高齢者のケアのいずれにも
形を変えて当てはまるのではないかとは思うので、
ちょっと乱暴ですが、ここでは便宜上
それらを全て「介護」という言葉に含めさせてもらって。


介護者による虐待(その最たるものとして殺害)が起こって事件になると
社会は「どうして支援が間に合わなかったのか」と専門家や行政の責任を問い、
「助けを求めることも出来たのに」と介護を抱え込んだ家族をいぶかるのですが、

その一方で、
介護者の姿に「献身的な親の愛」や「美しい家族愛」を見ては感動・賛美し、
暗に「介護が苦にならないのも深い愛情があればこそ」というメッセージを
日常的に送るのも、また社会です。

社会は介護者に対して2つのスタンダードを使い分けているのではないでしょうか。

介護者が虐待や殺害行為に及ばずに介護負担を抱え込んでいる限りは
賞賛や拍手と同時に「やっぱり家族介護がなにより」
「愛さえあればどんな過酷な介護だって」などのメッセージが送られて
介護者が悲鳴を上げたりSOSを出す声を封じています。
そうして介護に苦痛を感じる自分は愛情が足りないのだと介護者が恥じたり
自責や罪悪感を覚えなければならないプレッシャーが日常的にかかっているのだけれど
その結果として限界を超えた介護負担を抱え込み虐待や殺害に至ってしまった場合には、
「なぜ抱え込んだ」と今度は一転、抱え込んだことを責められる──。

社会のダブルスタンダードによって
介護者は一種のダブルバインドの状態に置かれているのではないでしょうか。

しかし、
そのような社会からのプレッシャーがなくとも、介護者は
自分自身の中で既にダブルバインド状態で葛藤しているのです。

介護を自らの直接体験として知らない人は
「人は思いにあることを全て行動にすることができる」という重大な誤解をしがちで、
遠方に住んで自らは介護負担を免れている親戚が介護者の不足を責めるという
よくありがちな場面も、この誤解によるものだろうと私は考えるのですが、

介護を自分の直接体験として知っている人は
そんなことは誰にも不可能だという事実を骨身に沁みて思い知らされている人でもあって、

「こうしてあげたい」、「ああしてあげられたらいいのに」と
どんなに頭で真剣に考え、どんなに心に念じても、精一杯の努力をしても、
生身の人間である介護者にできることには限界があります。

思いの全てを行動にして実現することは、どうしたって無理なのです。

そのために、たいていの介護者は「もっとしてあげたい」という思いと
「でも、そこまで頑張れない」現実の自分との相克に苦しんでいます。

その下敷きが既にあるところへ
社会が暗黙に理想とする「自分を棄てて我が子や家族のために尽くす」美しい介護者像が
「自分も本来そうあるべき姿」として内在化されてしまうと
介護が苦しくなればなるほど介護者は自分を責め、罪悪感に囚わることになります。

助けを求める声を奪われ、
ますます頑張り続けるしかないところへと追い詰められてしまうのです。


介護は、
その役割を担う人への肉体的、精神的、社会生活上の負担を伴って日々営々と続く営みです。
個々人の愛情や努力や能力・資質に帰するのではなく、
避けがたい負担がそこにはあるのだという現実を現実として認め、
それを前提に介護者自身への支援が制度の中に位置づけられていくことが
必要なのではないでしょうか。

そして世間の人には
介護や子育てを考えたり議論する際に、
そこに自分の美意識を持ち込まない、ということを意識してもらえないでしょうか。

美意識とは所詮、
相手の苦悩とは無関係な場所にたたずむ傍観者の贅沢に過ぎないのだから。