「社会の常識を病院の常識に」

友人が入院した総合病院の病棟詰め所の壁に
「社会の常識を病院の常識に」という額がかかっている。

数年前に他の友人を見舞った他の病棟にも
同じ額がかかっていたのを思い出してコメントしたところ、
私の口調に滲んでいた反発と揶揄を敏感に感じ取った友人が
自分は病院の常識が社会の常識と違っていたっていいと思う、と言う。

いや、よくない。

少なくとも、社会の常識と違っていることの自覚くらいは
持っておいてもらわないと困る、と私。

けど、これもまた、
その人の医療との距離や関係によって捉え方の違う問題なのだろうな、と、
いつか「医療の理解度のギャップ」のエントリーで考えたようなことを、また考える。

ほとんど医療との接点などないまま生きてきて、
ある日ひょっこり大きな病気をしたから
日常の生活を取り戻すために医療の力を借りるべく
期間限定で医療と付き合おうというスタンスの人と、

慢性病や重い障害を抱えて、
ずっと医療との密接な関係の中で長い年月を生きてきた人
今現在も、きっとこの先も医療とつきあいながら日々の生活を送るしかない人にとっては、
自分の人生や生活における医療の位置や影響力(時に支配力ともなる?)がまるで違うのだ。

前者の人にとっては
病院は臨時に身を置いているところであり非日常の世界に過ぎないだろうし、
医療の単発ユーザーとしてのスタンスで臨む限りにおいては
医療職の常識がどれほど社会の常識と隔たっていても、
妙な人たちだ、ヘンな世界だと割り切って期間限定で付き合えば済むことだろう。

最終的に治してくれさえすれば
病院や医療職の非常識にしばし目だってつぶれるだろうし、
医師や看護師との間に信頼関係ができなくたって大して困らないかもしれない。

しかし日常の中で医療と付き合っていかざるをえない後者の人にとって、コトはそう単純ではない。

白衣を着たとたんに社会の常識をすっぽり脱ぎ捨てられたのでは
医療職の人の言動に、病気や障害以上に傷つけられることがあるのはもちろん、

社会の常識によって営まれるこちらの生活を医療に侵食されまいと、
患者には、医療の常識と必死で闘うしかないこともあるのだよ……

大きな病気が分かったばかりで
入院第1日目の友人に、こんなことを言っても分からないとは思うし、

誰しも我が身で経験しない限り
こんなことは分かりようがないのだけどね。