'Thunder'批判のメディア記事

ハリウッド映画 Tropic Thunderの知的障害者差別問題を
精力的にフォローしているジャーナリスト Patricia Bauerさんのブログに、
日曜版で‘Thunder’を批判した新聞の記事が7本挙げられています。

Sunday’s crop: ‘Thunder’ commentary
PatriciaEBauer NEWS & COMMENTARY ON DISABILITU ISSUES
August 17, 2008

知的障害のある子どもの親の立場や障害者団体として書かれたものを含み
一応7本すべてを読んでみました。

客観的な立場から一番簡潔に論点を突いていると思ったのは、

Movie should be catalyst for change
Journal Star, August 15, 2008

例えば

Words hurt. Some words can destroy lives.
言葉は人を傷つける。言葉が命を壊すこともある。

This is not a plea for political correctness. It is a demand for basic human decency.
これは政治的な正しさを求める声ではない。
人として基本的な心遣いを求める声である。


この記事が問題を皮相的な言葉の問題ではなく、
誰かと向かい合う自分の人としてのあり方の問題なのだと書いていることは
とても正しい問題の捉え方だと思う。

ただ、この記事のメッセージもまた、やはり世の中の多くの人には届かない。

私が読んだ時点で寄せられていたコメント30のほぼ全部が
「たかが映画やギャグに、なにマジになってんだよ」
「この程度の言葉にいちいち目くじら立ててたら何も言えないだろーが」
「バカをバカと呼んで何が悪いんだ」
「ホントのretard だったら何と呼ばれようと気にならないだろ」
など、記事への反論・批判であり、
そこにこそヘイトが満ち満ちていることに
改めて障害者を取り巻く空気の冷たさを感じ暗澹とさせられます。

それから、もう1つ気になるのが、
ここに挙げられた7本は全てローカル紙の記事であり、
メジャーなメディアは概ねDreamWorks寄りのスタンスでこの問題を眺めているらしいこと。

         ――――――

上記記事の一部を訳す際にdecencyを一応「心遣い」としてみましたが、
なんとも日本語一言ですくいきれない言葉のような……。
今ちょっと手垢に汚れて本来の意味を失っていますが「品格」の方が近いかも。

この言葉は大江健三郎さんがノーベル文学賞受賞の際のスピーチで
日本語に翻訳せずに、そのまま「ディセンシー」として使われて、
(もちろん私ごときには計り知れない高度に文学的哲学的ディセンシーのことだったのだけど)
人類の未来への希望を自分は人のディセンシーに託したいと言われたような記憶があって

そんなことを思い出しながら読むと、
実際、この記事に寄せられているのは decency の感じられないコメントばかりだなぁ。

さらに、そういえば、
グローバリズムだ、ネオリベラリズムだ、科学とテクノロジーで「もっと、もっと」と
急速に便利になりつつ過酷さを増していく世の中から
どんどん失われていっているのもまた、basic human decency のようでもあり。