ソフトバンクの子どものケータイ擁護論

6月15日の朝日新聞が「耕論」というコーナーで子どもの携帯問題を取り上げていて、
そこでソフトバンク社長室長の嶋聡氏が
携帯電話はもはや重要な社会インフラなのだから、
使いこなせるように子どもにも早くから持たせた方がいいと
主張しています。

そこで嶋氏が言っていることというのが、
いわゆる“Ashley療法”の正当化や擁護の論理や、
スポーツにおけるステロイドの解禁を説く人たちの論理や
トランスヒューマニストらが展開する論理と見事に同じような……。

科学とテクノ万歳文化の人に共通した
ものの見方・考え方、論理の展開の仕方というのが、あるんだなぁ……とつくづく。

例えば、
「利益 対 リスク(コストまたは害)」の差し引き勘定議論
功罪を考えれば圧倒的に『功』の方が大きい」と述べているように、
嶋氏の子どもにもケータイを持たせようとの主張の大枠は
「利益対リスク」の枠組みの中で展開しています。
そのくせリスクと害についてはほとんど触れていないに等しいのですが、
これは“Ashley療法”の正当化や擁護でも、
トランスヒューマニストらのテクノロジー利用の正当化でも同じような気がする。

市場原理・個人の自己選択・自己責任 
嶋氏は教育再生懇談会の「子どもに携帯は持たせないほうがよい」という提案は
戦前と同じ政府の干渉である、とし、
選択の自由は大切にしたい。最後に選ぶのは消費者だ」と。

これを個人の生き方や暮らし方からもっと進めて
「個人の肉体をどうしようと自己選択だ、国家が介入することではない」とまでいうのが
トランスヒューマニストということになるのでしょうか。

また、この理屈を“Ashley療法”に転じて、
「個人の選択によるものであり国家の介入ではないので優生思想には宛てはまらない」と主張し
”Ashley療法”は優生思想につながるとの批判に反駁したのがNorman Fostの見解でした。

グローバリズム
嶋氏はソフトバンク孫社長の考えを引いて、
国際競争の鍵はITで、今後はパソコンから携帯に主役が移行する、
だから世界に通用する日本人をつくるために
子どもに携帯を持たせることがむしろ必要だと説くのですが、

その割りに、その後に並べている個々の子どもへのメリットは
おざなりに並べられているだけのようにも感じられます。

科学とテクノ万歳文化の人たちが眼を向けているのは国際競争であり、
もっと言えば人類世界を未来型に変革していくことであって、
実は個々人にはほとんど興味などないからでは? ……というのはナナメに見すぎでしょうか。

既成事実の追認
既に携帯は不可欠な世の中になっていることが強調されていて、
大人並みに忙しい子どもにとって、週間予定を管理し、時間を有効に使うのに携帯は必須
共働き家庭で家族揃った食事もままならない時代だからこそ、携帯で家族がつながることが大事だ、と。

Norman Fost や Julian Savulescuステロイドの解禁を説く際に言っている
「どうせ禁じたところで選手はどんな手段を使っても違法薬物を使用するし、
 既にそれなしには競技が成り立たないところまでステロイドは浸透しているのだから、
 選手の自己責任で使わせればいい」
というのと同じ理屈なのですが、

本来憂慮すべき現状を追認し、それを正当化に使ってどうするんだ、と思う。

優越意識と選別
嶋氏の言い分の中で最もホンネが出ているのではないかと思う部分は
携帯を使いこなせず、実情に疎い大人に限って『子どもに持たせない』というのではないか」。

「これからの世界を動かしていく最先端科学やテクノの“知”に親しい人間」としての優越意識が、
トランスヒューマニストをはじめとする科学とテクノ万歳文化の人たちの言葉には
とても色濃く滲んでいるような気がするのですが、

今の世の中をものすごい勢いで席巻している先端科学とテクノロジーの合理主義は
どこかで自分たちの合理主義だけを”能力”の基準にして人間に線引きをおこない、
「価値の高い人間」と「価値の低い人間」とに選別していて、

そして、その“選別の空気”は、
グローバリズム新自由主義によって
国際競争で生き延びるために国内的には財政が逼迫していく各国の状況の中で
「“価値の低い”人間の切捨て」へと向かう施策を後押しするのに
とても都合のよい“社会の空気”を醸しだすことにも繋がっているのでは──?