イスラム女性の処女膜再生からAshley問題を

前のエントリーでとりあげたヨーロッパ在住のイスラム女性の処女膜再生術の話を
その後あれこれ考えているのですが、

もしも何かの拍子に
処女膜を再生したのだという事実がバレてしまったら……?

そういうことを考えると、やっぱり処女膜再生は彼女らの解放ではありえないし、
それはどこまでいっても急場しのぎの解決に過ぎなくて、
やはり彼女らが再生手術を受けなければならないこと自体が抑圧の象徴じゃないか、と。

もっとも、自分の生活の中に難題を抱えて非常に苦しい状況にある人は、
もしもテクニカルな簡単解決が自分の手の届くところにあれば、
取りあえずの苦境から逃れるために手を伸ばすだろうし、
テクニカルな解決のリスクやその意味など構ってはいられないのだろうなぁ……
とは思う。

だからフランスの産婦人科学会がいくら
「フランスでは女性が闘って性革命を起こし女性が解放された歴史がある」といっても、
自分はまだ解放されていなくて命の危険にさらされているのだから
当事者でもない人間にそんなキレイゴトを言われても困る、と
彼女たちにすれば言いたいだろうな、と。

……と、この問題をここまで考えて、ふっと思ったのですが、

その事情はきっと
重い障害を持つ我が子が大きく重くなっていくのを前に、
子どもの生活にも制約が増えてきて、
自分の介護負担も重くなり、限界を感じ始めている親にとって、
目の前に「ホルモンの大量投与で身長を抑制できますよ」という解決策が
医師のお墨付きで差し出されたら……という場合も同じことなのだろうな、と。

去年5月のワシントン大学のシンポジウム
いわゆる“Ashley療法”を「やらせろ」と声高に主張していた重症児の親たちも、
Ashleyの父親のブログに賛同のメッセージを寄せる親たちも、
そのリスクや倫理性を端から云々されたところで
「私たちの直面する負担や苦しみを知らない他人に何が分かる?」と言いたいのは、
処女膜を再生するイスラム女性と同じなのかもしれない。

でも、やはり重症児へのホルモン大量投与による身長抑制は
イスラム女性の処女膜再生と同じ、所詮は急場しのぎの解決に過ぎず、
問題そのものの解決には全くつながらない。

だって、重症児の介護を巡る親の悩ましさは、
子どもの身長を抑制したって本当は解決しない。

Ashleyの父親を含め、
子どもの身長さえ技術的に抑制できれば問題が解決すると考えている人は、
「親はいずれ必ず老いる」、「家族の境遇も事情も様々」という事実を忘れている。

処女膜再生が一見イスラム女性の解放のように見えて、
実は抑圧と差別の象徴であるように、

“Ashley療法”もまた、一見、重症児と家族の解放の手段のように見えても、
実は支援を充分に保障されていない障害児・者と介護者の苦境の象徴であり、
重症児への誤解と差別の象徴だと思う。