「だから”穏やかに”家で死ね」って言われても

最近、ある一定の論調で終末期医療を語る文章を読むと
やたら目に付くフレーズに私はとても素朴な疑問を抱くのですが、
そのフレーズとは、例えば、

家庭で穏やかな死を迎える」。

こういったフレーズは明らかに、
「病院での終末期医療で激しく悲惨な死を迎えるよりも」という言外の対置を含んでおり、
(そう明示されている場合すらあって)

そこには

病院での死は必ずや激しく悲惨な死となる
        vs
家庭で暖かい家族のケアを受け、家族に囲まれた死は必ずや穏やかなものとなる

という前提がこっそりと忍び込んでいるように思われて、

え? じゃぁ場所さえ家だったら穏やかに死ねるんですか――? 
眉にツバつけたくなってしまう。

もしも、
家で温かい家族に囲まれていようと、
激しく悲惨な死が避けられない場合だってあるとしたら、
死んでいく本人にとっても無用な不安や苦しみが追加され、
家族にとっても後々の後悔やトラウマになりそうな最たる場合というのが、
それじゃないか、という気がする。


だいたい家族関係って本当にそんなに単純にハッピーなものでした?
もちろん、そういう家庭もあるのでしょうが、
個々人が密かに抱えている心の傷を辿っていったら、
その源泉は他ならぬ家族にある……という場合が多いような気が私にはするのですが、
現実の家族のあり方はとても複雑で、様々な感情の捩れを伴っていたり
時には修復不能な関係性までそこには包み込まれているというのに、

医療や介護を論じる際にだけは、なんでもかんでも
「病院や施設は冷たいところ」vs「家庭は温かい場所」
「専門職は冷たいケアしかしない」vs「家族は愛情に満ちて行き届いた温かいケアをする」
という単純な図式が強引に当てはめられる。

そこに、さらに死に方にまで
「病院で死ぬのは悲惨」vs「家庭で死ぬのだけが幸せ」という短絡が塗り重ねられていく。

仮にその比較が現実なのだとしても、
だから病院の死も悲惨でないものに」は抜けたまま
だからみんな家庭で死ね」と号令されても……。

ホスピスや緩和ケアの理念が根付いた施設など”家庭以外の場所”で
家族や友人に囲まれていようといまいと「穏やかな死」を迎えることもありうるはずだし、

「穏やかな死」が終末期医療を巡る議論のキーワードになるのであれば、本当は
病院や施設での緩和ケアの普及・充実と地域医療の整備、さらに
医療と介護の本当の意味での連携こそが最優先課題のはずで、

そういうことが語られない終末期議論の中で患者側に向かって繰り返される
「家庭で穏やかな死を迎える」というフレーズ──。

コインを入れた帽子に美しい色の布切れをふわっと被せて
コインを鳩に化かして見せる魔法のフレーズのような……。

【追記】
その後、こんなニュースがありました。