「幼年期の終わり」はやっぱりTHチックだった

もともと小説でも映画でもSFというジャンルが苦手なので
読んだことがなかったし、正直なところアーサー・C・クラークという作家にも興味がなかったのですが、
新聞で追悼記事を読んでいるうちに
THニストたちの夢の萌芽がこういうところにあるんだろうなと想像されたので
幼年期の終わり」を読んでみたら、
(ちなみに読んだのは89年に書き直された第一章を含む新訳。翻訳がものすごくよかった。)

いや、面白かった。
私には一番面白かったのは第1章で、
そこだけ独立の短編かというほどぐいぐい惹きつけられた。

第2章以降にしても、これが53年に発表されたとは脅威の想像力・創造力。

人類がもっと頭が良くなった時にもっとできるようになることを
トランスヒューマニストがあげつらう時に、
彼らは芸術にはあまり触れない。

特に文学にはまず触れない。

頭の良さだけで文学的創造ができるわけではないことを、
実は彼らも知っているからなのでしょうか。

だって、これはクラークという作家の彼にしかできない「芸」だもの。

その一方、
この作品を読んで、とてもTHニスト的だなぁ……と
思わず苦笑してしまったのは、
50年代に書かれて21世紀に設定されたクラークの未来世界が
知的レベルの高いエリート白人男性の価値観で作られていること。
(一応、肌の色が既に意味をなくした未来世界とされており、
物理的にも数時間で地球上のどこでも移動可能なのだから、
肌の色という点だけで言えば黒人も登場はしますが。)

クラーク氏は男性と女性の性役割については未来永劫不変だと考えていたみたいで
この未来世界の性役割分担は50年代のまんま。
仕事をするのはみんな男性で
女性は育児と家事をモンクも言わずに引き受けて
彼らの帰りを家でおとなしく“待って”いるのだから、
こればっかりは笑ってしまった。

また人間がオーヴァーロードと呼ぶ宇宙人の外見は「悪魔」にそっくりで、
その姿に人間が理屈抜きの恐怖を覚えるのは
「種族の記憶」とでもいうものがあるからだろうと。

話は“人類”と“宇宙の支配者”という対立軸で描かれているはずなのですが、
ここではキリスト教文化が“人類”に拡大されてしまっているし。

(矢印型のしっぽ……日本人である私のイメージでは「悪魔」というより「バイキン」)

「自分が望まない仕事についている人間が誰もいなくなった世界」では、
食事は主語もなく作られて、主語もなく「片づけが終わる」ものであり、
登場人物たちが集うパーティでは飲み食いが行われているのに、
それを運ぶ人も片付ける人も存在しない。

国連も各国の政府も警察も学校も各種研究機関もあり、
だからおそらくその他の機関も存在して社会を機能させているようだから、
当然のごとく、そうした機能を支える労働者が必要なはずなのだけど、
組織の下層部分を支える労働者も単純労働の従事者もいない、
少なくとも表に姿が見えない世界なのです。

つまり主役しか存在しない世界なわけですね。

知的労働に従事している男性主役たちと、
せいぜい登場するのは
彼らが愛情を注ぐ対象となる妻と子ども、それから愛人という準主役。
この世界で姿を見せる人間はそれだけ。

この辺りに私は一番トランスヒューマンな感じを受けた。

幼年期の終わり」はこの点では
あたかもみんなが主役のように夢を描いて人をたらすトランスヒューマニズムや、
「主役たるマジョリティの利益のために」功利主義で障害者を切り捨てるリベラルな生命倫理
根っこのところが繋がっているような。

知的レベルの高い白人エリート男性優位の価値観という根っこ。

彼らの描いて見せる主役だけの世界で、
表に姿が見えてこない人たちは一体どうなっているのか。

その舞台ウラや奈落の下を覗いてみたら
いったいどんな人間がどんな過酷な役割を割り振られているのか。

ジャマだから見苦しいからと奈落の底に放置されたり
薄暗い片隅で舞台に漏れきこえないように声をふさがれて殺されていく存在は
本当にいないのかどうか。