子どもへの薬の人体実験(日本)

英国で抗ウツ剤の副作用で子どもが自殺した件から製薬会社の情報隠蔽が明らかになった問題について
前回のエントリーで紹介しましたが、
その際の調べ物でたまたまひっかかってきた論文がとても気になるので。

児童精神医療における薬物投与 ――人体実験という視点から――
門眞一郎、「精神医療」 第14巻2号、pp. 49-57 1985

かなり古い論文なのですが、
85年当時に既に「このままでは子どもが医師の論文作成の材料化してしまう」と
日本の児童精神医療における実験的な薬物投与の実態に
警鐘を鳴らす論文が書かれていたということだけでも大きな衝撃でした。

まず指摘されているのは
①子どもへの適用や副作用について臨床試験で充分確認することなしに
大人を対象に認可された薬が子どもに拡大解釈で投与されている。

②厚生省(当時)が認めていない適用症に対して向精神薬が用いられるのは
治療的人体実験となる、という認識が不足している。

(現在のリタリン問題がここでの指摘に当てはまるのでしょうか。)

次に門氏が挙げているのは非治療的人体実験の3例。
そのうちの2つは自閉症児に対する、
子ども自身への利益がないか、少なくとも曖昧な実験。
臨床試験を行うにあたってのインフォームドコンセントも怪しい。

3つ目が1961年に論文報告された実験なのですが
これが古いだけにすさまじい。
「精神薄弱児に対する薬剤の効果……(以後略)」というタイトルで報告されたもので、
簡単に言えば
もともと知的機能に障害のある子どもたちに知的機能を低下させる薬が効くかどうか
入所施設で知的障害のある子どもに朝っぱらから睡眠薬を飲ませて反応を見てみた……と。
しかも、日本の障害児福祉では知らない人がない、
由緒・伝統ある施設での実験だというから悲しい。

こんな医師の興味本位としか思えないような実験を行うために
入所施設で身体を人質にとられているも同様の子どもに対して、
彼らを守るべき立場の医師らが逆にその状況につけこんで、
健常児以上に弱いところの多い障害児らに
本人たちには何の利益もない、不利益だけの薬物を投与して
しかも実名とともに観察結果を論文報告する──。

(「どうせ障害児だから」という意識でやったとしか思えませんね。)

時代が時代だったとはいえ、
この論文で読む限り、
実験論文の著者らがその後、現在の人権感覚から振り返って、
過去に行った実験について反省している節もない。

さらに門氏は
治療的・非治療的人体実験でのインフォームドコンセントにおける説明の不十分を
いくつかの角度から指摘しているのですが、
最も大きな問題は対象が子供である場合の親の「代諾」についての考え方。

まず子どもの利益を代弁できるだけのまともな親であるという前提があった上で、
子どもに利益のある治療的実験であれば親の代諾もありかもしれないが、
子どもに直接の利益がない場合は親の代諾を認めてはならないというのが門氏の意見。

利益と害とを詳細に検討してどのような場合に親の代諾を認めるかについて
英国では80年に小児科学会の指針が出ているなど、
親の代諾について考え方は様々だが、
仮に害が少ない場合に非治療的実験に親の代諾を認めるとしても、
ほんのわずかでも本人が拒否的言動を見せた場合にはそれを最大限尊重すべきである、
それができないなら、それは「医原性虐待」である、とも。

これは医療を巡る親の決定権の問題とも重なってくると思うし、
例えば“Ashley療法”を批判してトランスヒューマニストのCowinが言っていた
「意思決定を行うことが出来ないという点も注意を要するが
 なによりも“抵抗することが出来ない”人に対しては慎重な上にも慎重が必要」
という指摘を思い出しました。

で、門氏の結論は、

子どものために必要な検査や薬が選ばれるはずが、実は新しい検査法や薬を試すために子どもが物色されるという倒錯した情景がくりひろげられる。医学のために子どもが存在するのではない。子どものために医学が存在するはずである。

(中略)……いま歯止めをかけないと、子どもたちは医師の論文作成の材料と化し、またたくまに死屍累々といった惨状を呈することになろう。

門氏がこう書いて20年以上も後の現在、
障害児・者への「医原性虐待」は着実に増えつつあるのではないでしょうか。

医師が論文を書くためはもちろん、、
この20数年間で肥大化した製薬会社やバイオ・テク関連企業の利権や、
「もっと健康に、もっと頭がよく、もっと便利で快適に、もっと効率的に、もっと長生きに」
という文化がもたらす価値観の変化によっても。