“A療法”は水面下でいくらでも可能なのか

アリゾナ大学法学部の新聞2007年1月号の4ページ目、
法学関連ユース&コメント欄にAshleyケースが取り上げられています。

Ashley X: The Little Girl Who Will Never Grow Up というタイトル。

記事そのものはそれほど長いものでもなければ、
内容も事件の概要をまとめただけの簡単なものなのですが、

その中に、
まるでそこだけゴシックで書かれているかのように
私の方が勝手に感応してしまった1文があって、

The fact that Ashley’s treatment and case remained private is most likely the reason no legal challenges were ever made.

法的な疑問が投げかけられたことがなかったのは、
おそらくはAshleyの治療とケースが公にされていなかったためだろう。

1月にDiekema医師が
すでに1つか2つくらいの病院が同じことをやっていると思う。
 公にするようなバカじゃないけどね」といった発言をしていること、

先日のCNNでのインタビューでAshleyの父親が
自分の思い通りにやれていたら、
 一般の人を議論に巻き込まずに医療者と親だけに情報提供をしたんだったのに
という趣旨の発言をしていることとを合わせ考えると、

現在でも、またこれからも、
“Ashley療法”を是とする医師と
それを求める親とが出会ってしまった場合には
いくらでも水面下で行われてしまう……ということではないでしょうか。

ワシントン州をはじめ州によっては
未成年や知的障害者への不妊手術には裁判所の命令が必要だと法律で規定していますが、

Ashley事件を振り返ってみれば、
この法律の規定は
法律を遵守して実施の前に裁判所に許可を求めるだろうとの医療職性善説に立っており、
医師や病院の側にこうした法律を尊重する意思が最初からなく、
親との合意でこっそりやって後は口をぬぐってしまった場合には
非合法であれなんであれ、
それで済んでしまうということでしょう。

実際、Fost医師 や Paris牧師
シアトル子ども病院生命倫理カンファレンスでの講演において
医師のやりたいことをジャマするだけの裁判所など無視せよと暴論を吐いています。

こうした危険性を考えてみても、
なぜAshley事件で子宮摘出の違法性が認められながら、
その違法行為に対してなんら責任追及がされないのか──。

そこのところが私には理解できない。