「発達年齢」よりも「生活年齢」を

発達障害に携わっている療育関係者は「発達年齢」をよく口にする。
発達年齢とは何であろうか。
限定された領域、生活とはまったくかけ離れた場所、状況、
ほんのわずかな時間で子どもの発達すべてを
理解した気になってはいないであろうか。
     …中略…
「発達年齢」という正体不明のものにとらわれず、
「生活年齢」を重視した治療活動、遊びを……

2003年3月の「作業療法ジャーナル」(三輪書店)巻頭で
京都大学医療技術短期大学部の加藤寿宏氏が書いている「提言」というコラム文章の一節。

Ashley事件で、
いとも簡単に生後3ヶ月(時になぜか6ヶ月)と決め付けられている「精神年齢」とは、
ここでいわれている「発達年齢」に当たるのだろうと思いますが、

その判定というものが加藤氏のいうような限定的なものであること、

さらに
そうした機能を治療や働きかけの対象にしている職種は決して医師だけではなく、
加藤氏のような作業療法士や療育施設の保育士や養護学校の教師でもあることを考えると、

仮にもあれほど過激な医療処置を行う正当化の根拠にするのであれば、
もう少し慎重にAshleyの状況を多角的に捉える努力が必要だったのではないでしょうか。

Latimer事件でも
痛み苦しみだけしか感じていなかったように父親が言いなしたTracyを
養護学校の先生たちは、
音楽を楽しみ、笑顔を見せる子どもとして
記憶しているというのですから。