「メモリー・キーパーの娘」に思うこと

生まれてきたダウン症児を死産だということにした医師と家族の物語
「メモリー・キーパーの娘」について紹介した前のエントリーに追記しようと書き始めたのですが、
長くなったので別エントリーを立てることにしました。

「メモリー・キーパーの娘]」について、
これを言っちゃ身もフタもないとは思うのですが、

この、誰も生活にだけは困らないお話の中で
誰かに経済的にであれ生活状況的にであれ
日々生活するのが精一杯という事態が訪れたとしたら、
お話の展開もずいぶんと変わらざるをえなかっただろうか。

また生まれた子どもの障害がダウン症よりももっと重い、
もっと日常的なケア負担の大きな障害であったとしても
物語が本質的に同じ結末に至るということは可能だっただろうか。

……と、ちょっとシニカルなことを、
この本を読んだあと実はずっと考えているのです。

Phoebe の障害がたとえどんなに重いものであったとしても
例えば Phoebe が Ashley のような重症児だったとしても
この小説は同じ結末に至ることができるのかどうか。

そうであって欲しいと願う気持ちがある反面
それほど単純ではないぞと頭ではどうしても考えてしまうのですが、

じゃぁ、ダウン症児と重症児ではどこがどう違うのか、

Ashley事件で言われているように
社会に福祉サービスさえ整っていれば、
どんなに重い障害を持つ子どもと家族もハッピーに暮らせるのか、

福祉サービスさえ整っていれば、
障害のある子どもと親の間にある利益の対立や
親の死後への先取り不安の問題は解消するのか

福祉サービス以外に何があったらその違いが埋められるのか
……といった点になると問題が複雑すぎて手に負えないというか、

本当のことを正直に白状すると、
あまりにも生々しくて
その先を考えることを頭が拒否してしまう。

ただ、
その辺りの問題を初めてまともに考えてくれる人がここにいるかも……
この「ケアの分有」という考え方にはヒントがあるかもしれない……
と思って読んだのは以下の本。


この本については語りたいことが沢山あるので、
いずれ改めて書くつもりでいます。

著者の博士論文をまとめたものだと思われますが、
知的障害児の親への聴き取り調査に基づいてケアのあり方が考察されており
内容はタイトルほど難解ではありません。