障害者とテクノロジー会議にTHニスト? 2

今年のツアーの案内は見失ってしまったので、
こちらはユーディットが去年アクセシビリティ関連のMLに流した去年のツアー案内文の一節。

障害をお持ちの方にも、英語力に自信のない方にも、友人として以上の特別な
配慮はいたしません。事前に開設するMLで友達を作って、自力で会議に
参加してください。展示を見るだけでも充分行く価値があります。

なるほど、ここには
「障害者だからといってむやみに弱者扱いすることこそ差別」とか
アメリカの障害者なら、それくらいのことは自力でやって自立生活を実現している」
といったアンダー・トーンがあるのだろうと思われ、
いかにも障害者を人として認め尊重しているかのように聞こえなくもない。

でも、これははっきり言って、
「自力で会議に参加」できる障害像の人以外はくるな、と言っているわけですね。

で、このツアーに受け入れてもらえる障害像というのは結局、
Kurzweilの講演が対象としているらしい
感覚障害と身体障害が中心ということになるのかもしれず、

技術が人間をパーツでできた機械のように眺めることでサポートを可能にするのだとしたら、
じゃぁ、どこまではサポートなのか、どこからは尊厳の問題になるのか、
という問題は避けがたいはずだろうと思うのだけれど、
サポートを云々しても尊厳の問題に抵触しにくい安全圏が
とりあえず感覚障害と身体障害なのかもしれない。

これが知的障害だと
脳に電極を埋め込んで云々という話などになってしまうから、
一般向けにはそういうことも書いたりしゃべったりしているKurzweilも
さすがに障害者を対象にした講演では避けておきたかったのかもしれない。

そうすれば彼らトランスヒューマニストの中にある
知能をはじめとした能力と効率重視の人間観は
本質的に障害者への軽視・蔑視・切捨ての人間観であることを隠して、
新興テクノロジーが描く障害者のバラ色の未来だけを
語って見せることができるのかもしれない。


この会議の周辺の情報をぼんやり眺めながら、
それやこれや考えていたら、
頭によみがえってきたのは
Diekema医師が「ラリー・キング・ライブ」で
障害当事者らに向かってしきりに強調していた
「Ashleyはあなた方とは違うのだ」という言葉。

さらには同じくDiekema医師の
「その人の状態によって尊厳が何かという内容は変わる」
「Ashleyには自分が尊厳ある扱いをされているかどうかすら分からない」


新興技術で障害者をサポートしようと掛け声が行き交う世界を考えていると、
一方の側からはとても熱心にサポートを考えるのだけれど、
その反対側では、まるでそれと一対のセットであるかのように
全否定してばっさりと切り捨てるような動きも起こっていて、
両方の動きが両側からじわじわと進んで出会うところには
くっきりと動かしがたいラインが引かれてしまうのではないか……という
不気味さみたいなものを感じてしまう。