日本のAshley報道で起こったこと

市場テロでの無責任な報道から
事実と確認されたわけでもない物語が作られて一人歩きしている件で、
それでも次から次へと流れてくる刺激的なニュースに取り紛れて
この事件も既に忘れられ始めているのが現実なのだと痛感するにつけ、

実は世の中にはそういう物語で作られた“事実”があふれていて
我々はそういう物語の積み重ねの中で世の中を眺めているに過ぎないのかもしれない──

などと考えてしまうのは私の場合、
“Ashley療法”事件とどうしても重なって見えてしまうからというに過ぎないのですが、
その“Ashley療法”論争の際に日本で起こったことを。

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去年の1月に世界中で論争が巻き起こったとはいえ、
遠い(?)米国で1人の重症児に行われた過激な医療を
日本で取り上げたメジャーなメディアはほとんどなく、
ニュースを広げたのは主にインターネット上のニュース・サイトのようでした。

いくつかのサイトが海外ニュースを紹介する形で報じた中で
非常に残念なことに
「(Ashleyの)知的機能は既に失われ」と書いた記事がありました。
Ashleyが植物状態であるかのような印象を与えますが、
これは明らかに事実誤認なのです。

おそらく、いくつかの英文記事を読む過程で
記者が予め持っていた重症児のステレオタイプスティグマによって
そういう誤解が頭に植えつけられていったものでしょう。

ほんの10文字──。
長い記事の全体からすると、ほんの小さな部分です。
しかし、たまたま最も早く最も詳しかったために、
この記事は多くのブログにコピペされて広まりました。
そして
「知的機能が失われているのだから、やむをえないかも」などの意見の論拠となりました。
この記述から「Ashleyには感覚がないのだから」と理解した人もありました。

当時、私には理解できにくかったのは、
そうした議論をしている人の中に
Ashleyの写真を見た人も少なくなかったこと。

Ashleyの笑顔を見ながら、
どうして、それが「知的機能は既に失われている」子どもだとの記述を
疑わずにいられるのか……。

それが私にはどうしても分かりませんでした。

今もよく分からないのですが、
まず多くの人は重症児の現実を直接的に知らないからかもしれない。

その記者と同じステレオタイプスティグマが読者の側にもあった場合には
Ashleyの表情の豊かさには注意を引かれないのかもしれない。

それが、自分の見たいものだけを見てしまう
スティグマというものの怖さなのかもしれない、と思ってみたり。

もう1つには、
私たちはニュースを読むときには基本的に内容を信頼しているということ。
だからこそニュースから受ける衝撃が大きければ、
心が波立っている分だけ余計に、
冷静に自分の頭で検証しながら読むよりも、
早く事実を知ろうとしてしまう。

イラク市場テロの爆破犯が知的障害者だったと聞くと、
 私も衝撃の方が先に来てしまって
「どうして分かったんだろう」という当たり前の疑問が
 とりあえず引っ込んでしまいました。)

そして私たちはAshley事件でも市場テロ事件でも
メディアから受け取った物語の上に立ってそれを論じる。
強固な事実という土俵に立って自分は論じていると信じている、
その土俵が実はぺらぺらのベニヤ板でできたニセモノかもしれないなどと
疑ってもみずに。


でも一番怖いと思うのは、
1年前、Ashleyに行われたことに衝撃を受けて心を波立たせ、
人と話し合ったり、ブログに意見を書かないでいられなかった多くの人が、
本当はどういう事件だったのかという事実や真実を知ることもないままに、
あっという間にこの事件への関心を失ってしまったこと。

けれども、その人たちの記憶の中には
英米のメディアが流した物語とあいまって、
「知的機能が既に失われて感覚すらないアメリカの重症児に
親が愛情からこんな処置をした。
病院の倫理委も本人の利益だとして承認した」
という物語が“事実”として残ってしまったこと。

その“事実”だけを記憶に残して、
まだ続いている事件には
もはや誰も感心を持たないように思えること。

このまま事実が隠されてしまったり、
巧妙に何かを進めていくことを願っている人たちにとっては、
とても都合のいいことに。