「神聖な義務」に考えること

日本でも1980年に渡部昇一氏がエッセイ「神聖な義務」の中で、
障害者・病者が生まれるのは社会の負担だから、
「劣悪遺伝子」を受け継いだ人は子どもを産むべきではない、
と主張し、論争になっていました。

同エッセイで具体的に例として挙げられた病気である血友病者の立場から、
その論争をまとめた論文が以下。

血友病者から見た「神聖な義務」問題  北村健太郎 
Core Ethics Vol.3 (2007)

今なぜ80年の「神聖な義務」なのか。

論文の冒頭では、
出生前診断について様々な議論が行われてきた一方で、
医療の現場ではそんな議論などないかのように、
淡々と進められている(既成事実が積み重ねられている?)ようにも見える、と。

上記のエッセイで渡部氏が主張したのは、例えば

既に生まれた生命は神の意思であり、その生命の尊さは、常人と変わらないというのが、私の生命観である。しかし未然に避けうるものは避けるようにするのは、理性ある人間としての社会に対する神聖な義務である。現在では治癒不可能な悪性の遺伝病を持つ子どもを作るような試みは慎んだ方が人間の尊厳にふさわしいものだと思う。

また、それに抗議した青い芝の会への反論として、さらに、

特に、重症児たちの親たちの負担と苦労は大変なものでしょう。世話をする人は親だけでは足りず、他に見てくれる人も必要になりましょう。そうした場合、高い確率で重障害児を産む可能性のある親は特に慎重な配慮があってしかるべきだと思います。

この中の「他に見てくれる人も必要になりましょう」というのは、
その部分が社会の負担になるから、そういう障害児を生む確率の高い人は産むな、
ということですね。

渡部昇一氏はWikipediaによると1930年生まれなので、現在77歳。
そろそろご老体と思われますが、

社会の方もその後の財政逼迫と少子高齢化により、
現在では年金も医療も介護保険も破綻しそうだという、もっぱらのウワサで、
先生が意気軒昂な壮年でいらした1980年よりもはるかに厳しい状況。

そんな現在、
「社会の負担になる障害者も病者も少ない方がいい」という持論を撤回も謝罪もせず堅持されるならば、
高齢者も追加されるべきではないかと思われますが、

御年77歳の渡部先生はなんとおっしゃるのか、
ぜひとも聞いてみたいもの。

先生が主張されたような世の中では、
老いていく身も肩身が狭くはないですか?


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一方、北村氏の論文を読んで最も心に残るのは、

血友病患者の人たちが当時、抗議するという行動に出なかったこと。
その背景にある、ある種の歯切れの悪さのようなもの。

出血した時の激痛を身をもって知っているだけに、わが子にはそんな思いをさせたくない。
だから出生前診断で分かった場合には避けたいという気持ちもある。

渡部氏の発言に憤りがないわけじゃない。
でも一方に、親である自分たちですら可能なら避けたいと思う現実もあって、
その相克の中から生じてくるのは、

「正しいか正しくないか」だけで断罪できない歯切れの悪さ。割り切れなさ。


“アシュリー療法”が報じられた当初の衝撃の中でも、
重症児の介護の現実、QOL維持の難しさをリアルに知っていればいるほど、
「気持ちはすごく分かる。でも……」
「間違っているとは思う。でも……」
と、簡単に白黒がつけられないところで揺らいでいた人が沢山ありました。

問題のありかに近いところにいればいるだけ、
簡単に答えが出ないところで、ぐるぐるする。
白と黒のグラデーションの間を行ったりきたりする。
それはその現実を日々生きるということが、そういうことだからなのかもしれない。

子どもの体調がよく、自分も明るい気持ちで過ごせた日と、
子どもや自分の体調が崩れていたり、
障害を巡って周囲との間に心の波立つ出来事があった日とでは、
気持ちの向かう方向がまるで違っていたりもする。

今を大事にしようと前を向ける時もあれば、
自分が死んだ後の子どもを案じて物思いが尽きない日も
あるのかもしれない。

だからこそ、簡単に割り切れる合理的な答えを出す前に、
その割り切れなさの中にあるものを丁寧に考えていかなければならないんじゃないか

……という気がする。