「ダウン症だから選別的中絶」のコワさ
以前のエントリーで紹介した、
選択しないことを選択してダウン症の子どもを産んだ夫婦のドキュメンタリー“Choosing Naia”に、
アメリカではお腹の子どもがダウン症だと知った夫婦の9割が妊娠中絶を選んでいる
と書かれていたように記憶しているのですが、
選択しないことを選択してダウン症の子どもを産んだ夫婦のドキュメンタリー“Choosing Naia”に、
アメリカではお腹の子どもがダウン症だと知った夫婦の9割が妊娠中絶を選んでいる
と書かれていたように記憶しているのですが、
もちろん本人にとっては自分の障害が世界で一番重度だろうし、
親にとっても常に自分の子どもの障害が一番重度なわけで、
その苦悩を比較することなどできないし、
もちろん個別には様々なケースがあるのですが、
親にとっても常に自分の子どもの障害が一番重度なわけで、
その苦悩を比較することなどできないし、
もちろん個別には様々なケースがあるのですが、
ところがダウン症は羊水穿刺で妊娠中から分かるからというだけの理由で、
「障害児の子育て負担が親にとって大きいから」
「障害児は生まれてきても本人が不幸だから」
「生きるに値する人生は送れないから」
などとして選別的中絶の対象となり、既成事実化していく。
「障害児の子育て負担が親にとって大きいから」
「障害児は生まれてきても本人が不幸だから」
「生きるに値する人生は送れないから」
などとして選別的中絶の対象となり、既成事実化していく。
というふうに、
もともとは「回避の手段があるから」を前提に始まったことが
さらに他の回避手段を認める理由付けになっていく……という危険はないのでしょうか。
もともとは「回避の手段があるから」を前提に始まったことが
さらに他の回避手段を認める理由付けになっていく……という危険はないのでしょうか。
「ダウン症は妊娠中に分かるから」との理由で選別的中絶が当たり前になっていくことは、
おのずと、社会が許容する障害の重篤度にダウン症で線を引き、
「ダウン症よりも重いのは避けるべき障害」
という社会の暗黙の合意を作っていくことになるのでは?
おのずと、社会が許容する障害の重篤度にダウン症で線を引き、
「ダウン症よりも重いのは避けるべき障害」
という社会の暗黙の合意を作っていくことになるのでは?
輝きあるいのちを求めて 鈴木信行