トラウマなら、生理より手術体験では?

DiekemaもGuntherもFostも、知的障害のある女性は、何故そんなところから出血するのか、なぜ繰り返すのかという生理のメカニズムが理解できなくて苦しむのだ、と子宮摘出を正当化しています。

Diekemaに至っては、「重症の知的障害者には生理がトラウマになる人が多い」(CNN1月11日)とまで言っています。「アシュリーには既に血を怖がるという体験があったので、両親がそんなことは避けたかったのです」(同)とも言っています。しかし血を怖がるには、例えば「血=何か悪いこと」といった連想が働かなければならないはず。果たして生後3ヶ月の赤ん坊にそのような連想が働き、血を怖がるものなのか。アシュリーの知的レベルが低いという彼ら自身の見解とこの発言は矛盾しないでしょうか。

父親も、the Daily Mail紙の電話インタビューで「アシュリーには生理と生理痛に対処できなかったはずだから」と言っていますが、これは何の根拠もない予測に過ぎないでしょう。

いずれも、アシュリーに将来訪れるかもしれない(訪れないかもしれない)不快や苦痛に対して、えらく親切で過剰な思いやりですが、その一方で私がとても奇異に感じるのは、彼らが開腹手術という体験のもたらす恐怖感には全く無関心であるということ。

開腹手術のさい、患者はいきなり麻酔をかけられ意識を奪われてから手術室に運ばれるわけではありません。事前の検査があり、処置があり、手術室に運ばれる際には意識があるでしょう。準備室に運び込まれてから、さらに処置を受けます。その間、アシュリーに自分が置かれている状況や、その意味がどのくらい理解できていたか──。両親や主治医の認識からすれば、これから自分の身に起ころうとしていることについて、アシュリーが誰かからちゃんと説明してもらったとも思えません。

充分な説明を受け、納得した上で手術を受ける大人であっても、その緊張感や不安、手術室という特殊な空間のもたらす恐怖感には相当なものがあるはずです。仮に本当に生後3ヶ月の知能だったとしても、その恐怖感は強く感じたはずでしょう。もしも血を見て怖がる知能があるとすれば、その手術体験はアシュリーにとって、どれほど怖かったことでしょう。トラウマになるというなら、生理よりも、こちらの手術体験なのではないでしょうか。

ところが主治医らが触れているのは「比較的リスクの少ない手術」という程度。手術がアシュリーに及ぼす精神的心理的影響にも痛みにも意識はゼロ。皆無です。

親のブログから手術に関連した記述を拾ってみると、

唯一考えられる(この療法の)気がかりは手術そのものだったが、当該手術は普通に行われるもので、複雑な手術ではない。さらにシアトル子ども病院の最高の手術施設とチームに恵まれた。もしも我々がこれほど進んだ地域や国に住んでいなくて手術のリスクが高かったとしたら、この部分では別の分析をしていただろう。

(まるで、仕事上の経営戦略を立てるために各種データを”分析”でもするかのような口調ですね。)

子宮、乳房芽、盲腸を一度に摘出する手術は2004年7月に問題なく行われた。アシュリーは厳密な管理下で4日間入院した。アグレッシブな痛みのコントロールのおかげで彼女の不快は最小だった。一ヶ月もしないうちにアシュリーの傷は癒えて通常の生活に戻った。子どもの傷が大人よりも早く癒えるのは目覚しい。アシュリーの母親には帝王切開の経験があるので、手術後のアシュリー状態も分かっていた。ありがたいことに、回復は母親が予測していたよりもはるかに良好だった。

この文章から想像する限り、母親の方には心配した様子も見られますが、父親の方はアシュリーの術後の痛みすら「不快は最小だった」で済んでしまうのです。手術体験に伴うアシュリーの痛みや精神的な負担については、父親の方も医師らと同様、想像すら及んでいない。

アシュリーが「苦しむ」ことについて、この程度の意識しか持ち合わせない父親と担当医にして、将来あるかどうかも分からないアシュリーの生理を巡る「苦しみ」にだけは過剰な思いやり。

ひどくバランスを欠いたご都合主義の“思いやり”ではないでしょうか。