「わかる」の証明不能は「わからない」ではない

「アシュリーには家族が認識できていると両親は思うが、確信は持てない」ということについて、考えてみたいのですが、

DiekemaやFost、Dvorsky、Hughesを初めとしSingerも含めて、「知的機能に障害がある」ということに何らかの偏見と予見がある人たちは、上のような両親の証言を聞けば、「分かっているように思う」という両親の受け止めの部分はすっとばして、「アシュリーには家族すら認識できない」または「家族が認識できているかどうかすら確信できない」と短絡するかもしれません。

しかし、「分かっている」と証明できないからといって、それが「分かっていない」ことの証明にはならないのです。認知能力はあっても、表出能力が低いために分かっていることを表現できないということもあります。あるいは、意思表示はしているのだけれども表出能力が限られているために、その人が発する信号は微弱なものとなり、細やかな感性の人でなければ受け止めることができない、先入観があったり粗雑な感性しか持たない人は気づかない、ということもあるでしょう。

そこで紹介したいのは、ICUで急性期の作業療法に携わるOTさんに聞いた話。

橋出血で救急搬送されてきた女性。38歳。意識レベルはJCS(Japan Coma Scale)3桁で手術は困難。医師は「植物状態です」と家族に告げた。発症後4日目に担当した彼女は、この女性が右足だけはかろうじて自分の意思で蹴ることができるのに気づく。それによってYes, Noの意思疎通が可能となった。この女性はその後順調に回復した時に、医師が植物状態だと告げた後に自分の枕元で行われた家族の会話を鮮明に記憶していた。

このOTさんはユニークな人で、患者の覚醒状態を探るのに、マヒしていない方の手に日常生活で触っているものを握らせてみるといいます。例えば鉛筆。いつもの握り方をすれば、鉛筆だと分かっていることが確認できます。家族から聞いてパチンコ好きの人だと分かれば、パチンコの玉を握らせてみる。懐かしそうに握りこむ。現金の手触りに顕著に反応する人もいるそうです(衛生面から最近はやっていないとのこと)。

上記の橋出血の女性には幼い子どもがあったので、子どもの声を吹き込んだテープを聞かせてみた時に、最も豊かな反応を見せたといいます。「植物状態」だと医師が判断した患者が、です。

自分が仮に脳卒中を起こして「植物状態」だと診断され、もしもその病院のスタッフがみんな「どうせ、この人は何も分からない」と決め付けてしまったと想像してみたら、どうでしょう。「もしかしたら分かっているかもしれない」と考えて鉛筆を握らせてみてくれる人、「Yesだったら右足を蹴ってみて」と言ってみてくれる人が1人もいなかったならば、分かっていることを外の世界に知らせるすべがないまま「植物状態」とされるのです。そのうち「無益な治療」議論が始まってしまうかもしれません。

「分かっている」ということも「分かっていない」ということも証明できない場合には、私たちは「もしかしたら分かっているかもしれない」という前提に立つべきなのではないでしょうか。