Singerの“アシュリー療法”論評 1

Peter Singerの「実践の倫理」に触れたついでに、1月26日に彼がニューヨークタイムズに書いた”アシュリー療法“論争に関する論評 A Convenient Truthについて。

彼はこの文章の中で、主に両親と担当医への批判から3つの論点を挙げて、それに反論しています。

①“アシュリー療法”は自然に逆らうものである。

 この批判に対して、Singerが言っているのは2点。まずは医療はもともと自然に逆らうものだという主張で、これはアシュリーの両親、担当医、擁護に登場した奇怪な面々が言っていることと全く同じ。次に、アシュリーのような子どもは人類の歴史においては長い間、狼やジャッカルの餌食にされてきたのであり、自然に任せろというなら、本来はそれこそが自然な宿命かもしれぬ、と。

②歯止めがなくなるという「すべり坂」論。

 倫理委員会がこれらの処置が本人の最善の利益だと判断した以上、倫理委に提出されたエビデンスを聞いていない者には反論はできない。最善の利益原則を使うのが正しく、その原則に照らしあわせて判断する限り、他の障害児にも適用されて悪いことはない。「すべり坂」をいうなら、多くのADHD児へのリタリン使用の方が小数の重症児への成長抑制よりも、よほどリスクが大きい。

③アシュリーの尊厳を侵している。

これに対してSingerがいうのは、「生後3ヶ月相当の乳児に尊厳など、ない」との主張。具体的には、「親として祖父として、私は3ヶ月の赤ん坊は可愛いと思うが尊厳は感じない」、「我々は犬や猫の尊厳を云々しないが、犬や猫の方が人間の赤ん坊よりもはるかに高い知的なレベルで機能していることは明らかだ」、「アシュリーの生活で大切なのは、彼女が苦しまないこと、それから楽しむことが可能なものを楽しめること」と。

①の反論での「こういう子はかつては狼やジャッカルの餌食にされてきた」というのは、子ども病院のカンファレンスでFostが全く同じことを言っていました。(パネルの内容をまとめたら改めてアップします。)

②このブログでは倫理委員会の議論そのものが事実上不在だったとの仮説を検証してきました。(詳しくは「倫理委を巡る不思議」や「当面のむすび」の書庫を参照してください。)

「最善の利益」という概念がいかに曖昧であるかについては、このブログで取り上げただけでも多くの人が認めるところのように思えるのですが。

リタリンの使用」もSingerに限らず非常によく反論に使われます。しかし、それはむしろリタリンのスマートドラッグとしての安易な使用の是非を別個に検討すべきだろうという話であって、Aの危険性を指摘したら、それでBの危険性が打ち消されるものではないでしょう。そういえばFostも同じ論法を使っていましたっけ。「ステロイドに健康リスクがあると言うけど、それをいうならサッカーのヘディングだってボクシングだって、体に悪いじゃないか」って。

③の「犬や猫ほどの知的レベルにも達していないアシュリーに尊厳などない」というのが、いかにもSingerというか、①と②の反論は他にも同じことを言っている人がいるので、恐らくNYタイムズが彼を引っ張り出したのは、こういうことを書かせたかったんじゃないでしょうか。しかし、生後3ヶ月の赤ん坊に親として祖父として尊厳を感じないのは、彼の人間としての感性の貧しさを証明する以外に、何も証明などしていないのでは?