ゴンザレス事件の裏話

シアトル子ども病院での生命倫理カンファレンスでは、何人かが講演をした後で、まとめてパネルで会場からの質問に答えるという形式がとられています。最初のパネルを聴こうとしているのですが、聞き取り能力にも問題があって、ちょっと苦労しています。ただ、思いがけない人が会場にいたので、そこのところだけ先にご報告。

7月13日午前のパネルで、会場から発言した人の中に、テキサスのEmilio Gonzalesのケースで病院の延命治療停止の決断を行った委員会のco-chair(委員長の1人)だったという医師がいました。

【追記】その後、何度かパネルを聞きなおしているうちに、以下の部分について当初の私の理解よりも一般論として語られていることに気づいたので、手直ししました。(9月3日)

彼女の発言の要旨は以下。【議論の流れとしては、最近は親の意向を尊重するトレンドであるという話の中での会場からの発言でした】

あの事件では、母親の方はメディアに平気でいろいろしゃべったが、病院には守秘義務からメディアに明かすことの出来ない事情というものが沢山あった。病院としては基本的に親の意向には沿う方向で考える姿勢だが、親にもいろいろな人がいて、子どものための決定を行う能力のない人もいる。私が言っているのは、このパネルで今しがた話し合われていたような資源の問題だけでなく、メンタル・ヘルスの問題、その他様々な問題を含めて。そのように親の決定能力を考え、子どもの最善の利益を考えたときに、親の意向に逆らって病院が決断しなければならない場合があるということ。

資源の問題というのは、その直前まで話題になっていた「治療にかかるコスト、保険の有無、また保険会社が払うかどうか、さらに親に自腹で治療をまかなえる資力があるかどうか」といった問題のこと。

一般論として語っていますが、エミリオの母親には子どもに代わって意思決定を行う能力がなかったと言っているのでしょう。特にメンタル・ヘルスを触れていることからすれば、母親に知的障害または精神障害があることを匂わせているのではないかと思います。

確かに報道の中には、病院でエミリオ本人のケアに当たっている看護師らには、エミリオが苦痛を感じていることが如実に感じられて、見ているのも辛いほどなのに、母親がそれを笑顔だと言い張っている、はたして「苦痛にゆがむ顔か、それとも笑顔か」といった話もあったように思います。病院が母親に相当てこずっていたらしい雰囲気も充分に感じ取れました。

確かに、どういう人だったのか、何があったのか、直接体験した人にしか分からない事情はあるでしょう。

しかし同じ状況で、最後まで力を尽くしてもらいたいと望む家族は他にもいるはず。障害がなくても同じことを望む家族がいる可能性があるのに、仮に障害があったからといって「そう望むのは親に障害があって理解できないからだ、この親には子に代わって意思決定を行う能力がない」という解釈になるというのも……。

子どもの側にせよ、親の側にせよ、どうして知的機能に障害があるということに医者も生命倫理学者も、これほど大騒ぎをするのか。なぜ、そんなに簡単に「どうせ何も分からない」、「決定する能力がない」などと短絡的な全否定になってしまうのか──。

それが、“アシュリー療法“論争の始めから、ずうううううっと、分からない。