知的障害者だからと助けなかった医師

知的障害者と「無益な治療」という概念を巡って、ちょっと古いのですが、とても気になる事例を見つけたので……。

知的障害のある男性がカリフォルニア州MercedのMercy Hospitalに救急搬送された。症状は腹痛と呼吸切迫。しかしオン・コールの外科医は男性の治療のために病院に来ることを拒否し続けた。記録によると、外科医は男性の知的障害について差別的な発言を繰り返した。その中には「死んだって、どうせ誰も悲しまない」という言葉も。男性は蘇生努力の甲斐なく心臓発作で死亡。15年間board-and-care home(ケア付き住宅?)で暮らした人だった。

出典は以下。(病院による患者遺棄の実態をまとめた2001年7月の報告ニュースです。)
http://www.commondreams.org/news2001/0712-09.htm

Fostが今年7月の生命倫理カンファレンスの講演の中で触れていた「基本的に患者を捨てさせないために作られている」という法律は、1986年のEmergency Medical Treatment and Active Labor Act(EMTALA)。別名Patient Dumping Law。病院の救急部門が検査や状態の安定をはかる治療を拒んだり、状態が安定していない患者を不当に他所に移した場合には、その病院は患者を“捨てた”とみなす、というもの。

上記事例は明らかにその法律に違反しているのですが、どうやら罰金は科せられなかったようです。(この事例を含め報告をまとめたPublic CitizenというNPOが把握している2001年4月時点。なお、事例がいつ起こったものかは明記されていません。)

罰金って……。ほとんど殺人だと思うのですが。だって、これ「未必の故意」なんでは……?
(無知なままの素朴な疑問です。)

それにしても知的障害があったら、家族以外の誰とも繋がるということができず、世の中の誰とも何処とも繋がりというものを一切断たれ、ぽつんと孤立して存在している……などと、どうして考えられるのでしょうか。

その男性にも家族があり、友人だっているであろうことが、なぜ想像できないのか。ケア付き住宅で暮らしていたというならば、適切な支援を得て自分なりの生活をしていた人なのでしょう。彼なりの居場所があり、人生があり、日々の様々な出来事があり、人との出会いや繋がりもあったのです。そこには彼を取り巻く人々が確かにいたはず。どうして「誰も悲しまない」と勝手に決め付けられるのか。
  
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非常にショッキングな事例ですが、私がこれを読んで思い出したのはPeter Singerが1月26日にニューヨーク・タイムズ紙に書いた“アシュリー療法”論争についての論評“A Convenient Truth”。特に以下の一節。

she is precious not so much for what she is, but because her parents and siblings love her and care about her.

アシュリーは、ありのままの人として大切なのではなく、両親と兄弟が彼女を愛し心にかけているがゆえに大切なのである。

これは、つまり「仮にアシュリーが死んでも、どうせ両親と兄弟以外に悲しむ人はいない」という、上記の外科医と同じ認識でしょう。では、Singerは両親と兄弟さえいなかったら、アシュリーが死に瀕していても「どうせ誰も悲しまない」から助けなくてもいいと?

P・Singerはこれを書いた際に、この認識を救急医療に持ち込んだ場合、上記の外科医のような行為に結びつく可能性を考えてみたでしょうか。それともSingerがこの外科医だったら、「救命治療はしないが、苦痛を取り除く処置だけはしよう」とでも言うのでしょうか。

「救命治療は無益だが、苦しまずに死ぬことが本人の最善の利益だから」と?