生命倫理カンファレンス Wilfond講演

Fostの講演のあとでWilfondの講演を聴いてみると、2人の講演内容は、”アシュリー療法“を巡っての、あのScientific American.comのメール討論のそれぞれのスタンスを「無益な治療の停止」という問題に一般化したものとも言えそうです。(メール討論の詳細については「擁護に登場した奇怪な人々」のNorman Fost, Joel Frader, Benjamin Wilfondの記事を参照してください。)

この講演でのWilfondの結論は、「無益な治療」議論においてコストは一定の比重を占めているが、コストの問題ばかりを重視するのは止めよう、医療費全体の中で考えればたいしたコストではないのだから、というもの。

Wilfondが挙げた主なポイントは、

・コストはあくまでも政策上考えざるを得ない社会の問題であり、もともと本人の最善の利益を考える際の「リスク対利益」という医療の検討の枠組みには、コストへの考慮は含まれていない。

・医学的には必要なくても、親の安心になるとか確認のためなど、心理社会的な目的で行われる医療行為もあり、そのような心理社会的な目的にかなうということも治療の利益には含まれる。

・Fostともう一人の講演で触れられていた子どものQOLについては、アセスメントが極めて難しい。特に重症障害児の場合には、その子や家族の現実の生活に直接触れることがなければ、その子どもにとっての生活がどんなものか知ることはできない。QOLとコストのバランスの議論では、分かりやすいコストの方が注目されがちである。

・コスト対利益の議論では、誰の視点でそのバランスを考えるかによって答えはまったく違ってくる。我々は子どもの視点で考えるのか親の視点なのか、それとも社会の視点で考えるのか。

・小児科ではfutileという言葉よりもlethal conditionという言葉をよく使うが、このlethalityという概念も曖昧なまま使われている。死亡率の高さでカテゴライズするのか、死ぬまでの時間を基準にするのか。治療しなければ死ぬという意味で捉えれば非常に多くが含まれることになる。

・特に重症障害児の親の要望には特別な注意を払いたい。重症障害児は我々の社会で最も非力な存在である。我々はそのような子どもたちをケアしたくないというのだろうか。彼らをケアできない社会は誰をケアすることもできない。重症児には居場所のない社会を我々は望むのだろうか。

・我々は本当にその人の生産性によって治療の続行を決めるような社会でありたいのだろうか。

・人工呼吸器をつけた重症児が家庭で暮らしている場合、本人と家族の双方が悲惨な生活を強いられているケースもあるが、子どもを家族の1員としてそれなりに豊かな家庭生活を実現する家族もあり、様々。そういうケースには時に外に出るためには2台の呼吸器が必要となるが、そういう家庭に2台の呼吸器を持たせてあげるだけの資源が我々の社会にはあるのか、ないのか。ウィスコンシン州ではそういう家庭に在宅のナーシング・ケアを1日16時間提供している。アリゾナ州に行くと8時間になる。「家族だって働いたり寝たりするじゃないか」と聞いてみると、アリゾナ州の返事は「働きたいのまで州は責任をもてない」。我々はそれだけの資源を持っていないのだろうか。

そして、Wilfondのむすび。

その子に障害がなかった場合と同じ判断を。
そして、議論の中でコストを主たる正当化に使うのはやめよう。

(ただし、Webcastで1度聞いただけなので、細部については正確でない部分もあると思います。また病名など専門用語が多用された箇所については分かりにくく、上記のまとめに含まれていません。必要な方は直接ご自身で確認してください。)

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Wilfondは明らかに恩師であるFostに反論しています。しかも、あのメール討論に比べると一般論だからか格段にきっぱりしています。2人の講演に見られる「無益な治療」、「QOL」、「コスト」を巡る考え方の違い、重症障害児に向ける視線の違いを考えると、あの“アシュリー療法”を巡るメール討論でも、Wilfondは実はFostに対してもっと反論があったのではないでしょうか。

Wilfondの講演の後、Diekemaの“Thank you, Ben”が非常にそっけなく冷淡に聞こえたのは、気のせいでしょうか?