国策でなければ優生にあらず (Norman Fost 5)

Fost医師が「ラリー・キング・ライブ」とScientific American.comのメール討論の両方で触れていることに、
優生思想だという批判への反論があります。

アシュリーに行われたことは優生思想だという批判があることに対して、彼は、

「優生思想というのは社会の重荷となる知的障害者が増えないよう、
彼らの生殖を防ぐ目的で政府が関与して、国家の人口調整施策として行うものである」

との解釈を示します。そして、アシュリーに行われたことは、

①国家の関与などなく、親が思いやりのある(!)医師に相談して決めた個人の選択である。
②アシュリーはもともと生殖などしないのだから生殖を防止するわけではない。

という2つの理由で、アシュリーに行われたことは優生思想ではないと主張しています。
(②の理由は、両親の弁護士が裁判所の命令は不要と判断した理由にも通じます。)

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中途障害者のJoni Tadaを初め、
“アシュリー療法”に優生思想を懸念する人が問題視しているのは、
広義の優生思想でしょう。

障害の有無、つまり特定の能力の有無によって人間に優劣をつける発想そのものを
問題視しているものと思われます。
それによって
「障害の無い人にはやってはならないこと」が「障害のある人だからやっても構わない」となることを
優生思想的発想だと懸念しているのです。

その意味で、
「アシュリーはどうせ生後3ヶ月のメンタルレベルだから(やっても構わない)」と
知的レベルの低さを免罪符に振りかざし、
「アシュリーは障害者運動ができるあなたたちとは違う」と主張する
Diekema医師の発言こそがことごとく優生思想的だと
Tadaは「ラリー・キング・ライブ」で主張し続けたのでした。

同番組でTadaが「この問題は将来の優生思想への土台を作っている」
「優生思想」という言葉を使ったとたんに
即座にそれをさえぎったのが、このFost医師でした。
そして、やはり上記のように主張したのです。

彼が披瀝しているのは狭義の優生思想です。
障害新生児への医療停止や出生前診断による中絶、
遺伝子操作によるデザイナー・ベビーなどの問題で
新たな優生思想だとの批判が出るたびに、
その反論として必ず提示される狭義の優生思想の定義と、これは同じもの。

これまで見てきた発言内容からすると、
Norman Fostは思想的にDvorskyやHughes、Bostromと近いところにいるのではないでしょうか。

そして彼はDiekema医師の恩師である可能性もある、
少なくともDiekema医師と旧知であると思える人物なのです。