子どもを守る行政の義務・介入権 2

もう1つ、こちらは今年2月に報道された英国のケースです。

8歳で89キロという超肥満児Conner McCreaddieの生活ぶりがテレビ番組で取り上げられたことをきっかけに、彼の肥満は親のネグレクトであるとして地方自治体が介入。シングルマザーとして子ども2人を育てている35歳の母親は「だって、この子は生まれつきお腹がすくタチなんです」、「どうしても野菜や果物は嫌がって食べないんだから、好きなものを食べされるしかないでしょう。飢え死にさせるわけにはいかないんだから」などと発言。

母親の姿勢に改善が見られなければ親権が剥奪され、子どもは施設に移されるという話に。しかし子ども保護会議でのヒアリングに母親が出席し、息子のダイエットに努力する旨で自治体側との合意に至ったため、子どもは母親と暮らせることになった。合意の詳細はプライバシー保護のため明らかにされていない。

ヒアリングは、子どもが苦しんでいたり、苦しむことや重大な害が及ぶことが予測される場合に地方自治体に調査を行う義務を課したthe Children Actに基づいて開かれ、合意についての発表はthe Local Safeguarding Children Board によって出された。

うがった見方をすれば、近年、大人ばかりか子どもの肥満も医療費圧迫の要因と予測されて深刻な社会問題となっていることから、あえて「子どもの肥満は親のネグレクト」とのメッセージを送り啓発効果を狙った対応という可能性も考えられなくはありません。

しかし、それはともかく、私が前回のAbrahamのケースとこのケースとで目に付いたのはソーシャル・サービスの存在です。子どもの健康を守る義務・責任が行政にあるという考え方と、それによる行政の介入権。

ディズニー映画の「リロ&スティッチ」に登場したコワモテのソーシャル・ワーカーも、両親が事故で死んだ後に姉と暮らしているリロの生活状況を確認にきたのでした。失業中の姉が次の仕事を見つけられなければ、リロは行政の介入によって姉から引き離されてしまうというのが物語の設定でした。

最近、英国で親族の介護を担っている子どもたち(young carers 若年介護者)への支援が急務になっているというニュースに触れる機会があったのですが、そこでも子どもが介護を担っている事実が知られるとソーシャル・サービスによって引き離されてしまうので、それを恐れて子どもも親もそうした事実を隠すために、必要な支援を受けられないで事態が深刻化していると指摘されていました。

ソーシャル・サービスの介入は、健康だけでなく、広く子どものwell-beingについて行政が責任を負っているという考え方に依拠したものでしょう。その家庭では子どものwell-being が守れないと判断した場合には、ソーシャル・サービスが子どもを家庭から引き離し施設に移すことを考えれば、行政は子どものwell-being の方を家庭で暮らすことよりも重視しているということになります。

一方、アシュリーのケースでは両親と医師らの主張は、重症児にとっては家庭で暮らすことこそ彼らの何よりのwell-being だとの前提に立っています。それが聞く人に簡単に受け入れられてしまうのは、彼らの議論が常に「愛のある暖かい家庭か、さもなくば冷たく危険な施設か」の2者択一の中でのみ語られるからでしょう。しかし、それなりに親の愛があっても家庭で必ずしも子どものwell-beingが守れるとは限らないとの前提で機能しているソーシャル・サービスの立場からは、アシュリーに行われた医療介入はどのように見えるのでしょうか。

アシュリーのケースを検討したとされる倫理委員会のメンバーにはソーシャル・ワーカーが含まれていました。病院のワーカーではありますが、それでも彼または彼女はソーシャルワークの視点から、両親や医師の議論をどのように受け止めたのか。その席で発言しなかったのか。発言したとしたら、どのような発言をしたのか。

医師らの論文が掲載されたジャーナルにJeffrey Broscoら編者が書いたEditorialにおいても、またArthur Caplanなど批判的な立場をとる生命倫理学者らの発言においても、「このケースでは、本来は社会的問題であるものを誤って医療で解決しようとしている」といった指摘がされているのですが、それでもなお5月16日のWUでのシンポにおいて、スピーカーの中に社会福祉の専門家は含まれていませんでした。病院サイドはあくまでも医療の問題にしておきたいのかもしれません。